石ころの価値/『一人ならじ』山本周五郎

 時代モノはさほど読んでいない。初めて読んだのは自宅にあった『宮本武蔵』(吉川英治著、講談社)だと記憶している。『水滸伝』『三国志』と進み、その後、『さぶ』と巡り合った。それ以来、山本周五郎を愛読している。司馬遼太郎藤沢周平は苦手だ。


『一人ならじ』は武家モノの短編集である。いずれも、壮烈なまでの「生きる覚悟」に焦点が当てられている。もののふの魂とは、人知れず修羅を生きることであった。


 結婚したての夫婦。夫が戦(いくさ)に参じては、石ころを持って帰ってくる。妻の目には奇異に映る。夫への不信が増してくる。ある日のこと、思い余った妻は、石ころの意味を問う。確かそんな筋書きだったと思う。

「しかしこれはこれで案外やくに立つのだよ。道普請(みちぶしん)にも、家を建てるためにも、また城を築くにも、土を締め土台石の下をかためるためには、こういう石はなくてはならないものだ。……城塁の下にも、家の下にも、石垣にも、人の眼にはつかないがこいう石が隅々(すみずみ)にじっと頑張っている。決して有る甲斐がないというようなものではないんだよ」


【「石ころ」山本周五郎(『一人ならじ』新潮文庫)】


 夫は淡々と答えた。自分の武勲を誇ることもなく。


 ともすると、人は「大きな石」や「綺麗な石」になりたがるものだ。また、磨けばきっと光るだろうという淡い期待もある。で、いざ磨いたら、結局小さくなっただけという事態に陥る。


 私は「かけがえのない」という言葉が大っ嫌いだ。漢字だと「掛け替えのない」となる。じゃあ訊くけどさ、「かけがえのないサラリーマン」って存在するのか? 「かけがえのない兵士」とかさ。「かけがえのないパートタイマー」もそうだな。“いつでも掛け替え可能”であればこそ、企業はリストラと称してサラリーマンの首を刎(は)ね、米軍はイラクで殺された兵士の数を増強し、管理職はパートのおばさんをアゴでこき使っているのだ。


 周五郎の文章も一歩間違えると、「かけがえのなさ」に着地しそうになるがそうではない。これは、「ありのままの自分」を生きろと勧めているのだ。大きな石と小さな石が互いに支え合っていればこそ城が築ける。そう。これぞ、「縁起の思想」。


 この物語が凄いのは、本来であれば大きな石として評価されるべき夫が、「石ころ」の覚悟で捨て身の戦闘をしていることだ。名も花も求めぬ、無一物の境地が胸を打つ。


一人ならじ (新潮文庫)