力士は神と化した/『雷電本紀』飯嶋和一

『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一

 ・時代の闇を放り投げた力士・雷電為右衛門
 ・力士は神と化した
 ・雷電為右衛門、登場
 ・「拵(こしら)え相撲」に張り手を食らわせた雷電為右衛門

『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一


 立て続けの書評となるがご容赦願おう。「雷電本紀」で検索したところ、低い評価が散見された。


WEB本の雑誌


 取り敢えずこのページだけ紹介するにとどめる。私は驚き、愕然とし、呆れ果てた。「ものを感じる能力」が退化しているようにすら見えた。幼児が甘いものを欲するように彼等はわかりやすい物語を求めているに違いない。


 この物語の縦糸は雷電の人生ではなく、民を抑圧した時代なのだ。そして横糸は相撲ではなく、雷電と打ちひしがれた民との関係性にあるのだ。鍵屋助五郎は民の代表であり、目撃者としての役回りを担っている。


「善人ばかりが登場するので物足りなかった」――かような感覚は、何から何までお膳立てしてくれるテレビ番組を見過ぎている証拠だ。ブラウン管の向こう側に挿入された笑い声に釣られて笑うような感覚の持ち主に違いない。映像ではなくBGMによって泣かされてしまうタイプであろう。テレビは喜怒哀楽をコントロールする。


 ドブから漂ってくる腐臭、打ち毀(こわ)しに向かう百姓の怒り、相撲界を取り巻く固陋(ころう)な因襲、無気力になり果てた農民、女衒(ぜげん)に売り飛ばされた娘達、舟着き場に置かれた脛石(すねいし)、そして雷電と助五郎を罪に陥れた政治……。この至るところに悪が充満している。行間に圧縮され、紙背から悪臭が漂う。登場人物の善性は時代と人々の邪悪という黒い画面を背景にしているからこそ際立っているのだ。


 つまり本書に感動できない精神は、邪悪に対して鈍感であることを示している。我々は分断された存在なのだ。だからこそ、苦しみ喘ぐ人々に共感する心すら失ってしまったのだ。


 既に勇名を馳せていた雷電は、自ら地方へ赴き地稽古を行った。風雨にさらされて今にも崩れ落ちそうな土俵へ上がり、力足を踏んだ。集まってきた農民達は飢えによって生きる力を根こそぎ奪われていた。眼に光はなく、声すら発しない。亡霊さながらに雷電を遠巻きにし、土俵を見守った。雷電が付き従えた若い衆を何度も放り投げ、叩き伏せる。何度も何度も――

 今まで助五郎でさえもこんなものを見たことはなかった。時折地稽古という言葉は聞いたが、実際に目にしたのは初めてのことだった。相撲人はそれぞれ抱え先の藩邸や諸藩ゆかりの寺などで稽古をつみ、あるいは年寄衆の持つ部屋の稽古場で習練を積み、白日公衆の目前にそれをさらすことはない。雷電はこの若者を殺してしまうのではないかと、助五郎でさえ思いはじめていた。
 ここ数年寒い夏が続き、実りは年を追うごとに乏しかった。それにもかかわらず、容赦ない年貢の取りたてによって、人々は飢饉に追いこまれ、疫病はその衰弱しきった村々に襲いかかった。すでに気力萎え、病み疲れた人々の前で、巨人と若者が、湯気をたち上らせ、汗を飛ばして激しくぶつかりあっていた。
「立て。負けるな」
 たしかに、見物たちから聞こえた。起き上がれずはいつくばった友吉が土盛りの下までほうり投げられ、それでも這いあがろうと、ちぎれた二重土俵の外俵にのばした右手をかけた時だった。言いよどんだように、突然張りつめた声がとんだ。かん高い子どもの声だった。しかし生気のある声だった。
「負けるな」
 10歳かそこらの、まだ瘡の痕を顔にとどめ、病み上がりの大きな目をした子が立ち上がって叫んだ。続いて大人の、老人の、女たちの声が泥だらけの友吉の背にとんだ。見物たちの何人かが立ち上がった。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


 雷電が叩き伏せたのは民の「無気力」であった。何度読んでも涙が止まらない。腸(はらわた)が捩(ねじ)れるほどの感動を覚える。雷電の本当の力は相撲で連勝したところにあったわけではなかった。民に力を与えたところにその真価があった。この時、雷電は神となった。


 これが神でなくてどこに神がいるというのだ。埃(ほこり)だらけになった神棚や、じめじめした土と空気に覆われた社殿に神はいない。そんなものは神を象徴したものであって、言ってみれば神のテレビ化みたいなものだろう。安易な気持ちで神を探している人々が自己満足できる装置に過ぎないのだ。


 翌日、蘇生した農民は皆で狩猟を行い、雷電一行に食事を振る舞った。


 Wikipediaの記事を見ると、本書は史実に基づいて書かれていることがわかる。


 雷電はやむにやまれぬ思いで行動した。そこには何の意図も計算もなかったはずだ。演出された見世物は永続的な感動を与えることができない。思案したり、計画したりすることもなかったことだろう。民と同苦(どうく)した瞬間、そこには「即座の行動」が生まれるのだ。ここに雷電の生(せい)の本質があった。雷電は「ただ、そうせざるを得なかった」のだ。


 嗚呼(ああ)、雷電よ、偉大なる相撲人(すもうにん)よ。あなたはまさしく神であった。


 機会を見つけて墓参しようと思う。



雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)
(※左が単行本、右が文庫本)