『三国志』を読んだのは19歳の時だ。難しい漢字の覚えにくい名前が多数出てくることに、随分と閉口させられた。何度も繰り返される戦闘の見分けもつかなかった。『宮本武蔵』は1週間で読み終えたのだが、『三国志』は2〜3週間ほどかかったように記憶している。
3人の無名の青年が桃園で誓いを立てる。だが、機いまだ熟さず、雌伏を強いられていた。玄徳は知り合った女性にうつつを抜かしていた。これは、確か関羽の発言――
「ああ、平和は雄志を蝕む」
【『三国志』吉川英治(大日本雄弁会講談社、1940年/六興出版、1956年/講談社文庫、1975年/新潮文庫、2013年)】
10代の私の胸に深々と突き刺さった言葉だ。完全に射抜かれた。確かに大人物は波乱の中から生まれている。最悪の環境をはねのけ、刻苦精励した人こそ英雄に相応しい。雄々しい志は、いつの時代も貧困や病苦によって鍛え上げられてきた。私は即座に決めた。「平和に生きることはやめた」と(笑)。
関羽と張飛は、兄と恃(たの)んでいた玄徳を置いて二人で出発しようとした。そこへ玄徳が現れて、こう言う――
「否とよ、恋は路傍の花」
【同書】
いやあ痺れたね。当時は彼女もいなかったしね(笑)。玄徳はただのデレスケ野郎じゃなかったんだよ。よかったよかった。私は胸を撫で下ろした。大体、これ1巻の内容である。玄徳がいなくなるわけないんだよな。そんなことに気づくだけの「読み」すら当時は持っていなかった。
私の若い時分も同様だが、ミュージック・シーンがラブソングで埋め尽くされている状況は嘆かわしい限りだ。もっと、働く歌や友情の歌、はたまた介護の歌やリストラの歌があってしかるべきだろう。恋愛至上主義みたいでうんざりさせられる。他に感動はないのか? だとしたら、そんな人生に生きる価値があるのか? と問いたい。