古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

戦争で異形にされた人々/『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編

 第一次世界大戦の写真集である。粒子が粗(あら)くて見にくい。だからこそ我々は、異形と化した兵士を辛うじて見つめることが可能になる。彼等の顔は原型を思い描くことができないほどズタズタになり、窪み、一部を吹き飛ばされている。


 スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』で紹介されていた一冊。エルンスト・フリードリッヒは敢えて兵士の凄惨な姿を紹介することで、戦争の実態を暴き出そうと試みた。

 写真は、その大部分が戦争場面、共同墓地、そして言語に絶する障害を蒙った兵士などを写し出したものである。それらはすべて、冷徹なカメラの目が捕えた冷酷な戦争の姿である。戦争とはいかに人間を狂気にさせるものであるか、戦争とはいかに多くの悲惨や苦しみそして個人・家庭・社会の崩壊を生み出すものであるか、戦争とは誰のために引き起こされ誰が犠牲になるのか、さらに、戦争が終わった後誰が楽をし誰が苦しむのか、などということを写真の一葉一葉は問いかけてくる。読者は時に、実に残酷な、思わず目を覆いたくなるような写真にも出会うことになろう。そんな時読者は、どうか、それを避けず勇気を持って直視していただきたい。なぜなら、それもまた戦争が生み出す避けがたい事実だからである。私たちは、「戦争を告発する最良の道は、戦争それ自体をもってすることである」というエルンスト・フリードリッヒの信念を共有するがゆえに、そして、「婦人の中にはこの写真を見て卒倒する者もあろう。しかし、どうせ卒倒するなら、この写真を見てする方が前線からの戦士電報を受けてするよりははるかによいのだ」というフリードリッヒの友人であり詩人であったクルト・ツコルスキーの言葉に励まされて、あえてそれらの写真を割愛しなかったのである。(「訳編者まえがき」坪井主税)


【『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編/坪井主税、ピーター・バン・デン・ダンジェン訳編(龍渓書舎、1988年)以下同】


 戦争が人間を狂気にするのではない。人間の狂気が戦争へと駆り立てるのだ。しかもその狂気は日常の中に潜んでいて、我々は疑似戦争行為としての競争に朝から晩まで身をやつしている。


 反戦・平和の声がどこか弱々しいのは現実を無視して理想を語っているためだろう。犠牲という結果に寄りかかり、戦争の原因を抉(えぐ)り取る気魄(きはく)を欠いている。人間は戦争が好きなのだ。そして他人を支配することや、外国人を差別することも。


 まず暴力を定義しよう。暴力とは「力が暴れる」状態と考えられる。つまり、ありとあらゆる力――財力、政治力、知力、魅力など――には「潜在的な暴力性」が秘められている。そしてその力が内外において均衡を欠いた瞬間に暴力は目に見える形となって現れる。相手を無力にしようとする暴力には大なり小なり殺意が存在する。暴力的衝動は相手をモノ化する。「内外において均衡を欠いた力が相手をモノ化する行為」――これを私は暴力と名づける。


 戦争は人間の業(ごう)が織り成すカーニバルである。政治レベルで争い、経済レベルで損得勘定を働かせ、メディアを通じて国民合意を形成する。嘘、デマ、インチキ、何でもありだ。国家的次元の欲望解放が戦争だ。だから戦争は必ず国民の熱狂によって幕を開ける。


 エルンスト・フリードリッヒは写真の合間を縫うようにして、プロパガンダ染みた言辞で読者を扇動する――

 本書を、戦争で利益をあげんとする者、戦争に寄生する者、戦争を挑発する者すべてに献ずる。本書はまた、すべての「国王」に、将軍に、大統領に、そして大臣に、ささげられる。神の御名を通し戦争兵器に祝福を与える聖職者には、戦争バイブルとして本書を献じたい。


 こうした手法に対してスーザン・ソンタグは様々な角度から吟味しているが、私は「あり」だと考える。国民が戦争へと駆り立てられる前に、多くの判断材料が与えられてしかるべきだと思うからだ。

 このような法を、国王に、大統領に、将軍に、そして、戦争賛美の記事を書きたてる新聞記者に適合させて次のような法を作るというのが私の方法である。
「国民をして戦争に徴する者、国民に大量殺人行為をなさしめる者は、兵士となった者の苦しみを購うべく、自らの命と財産を賭すべし。国民をして軍旗の下に駆り立てる王は、自ら旗手となるべし。一兵卒が食する物なく飢えたる時は、王はまた兵卒と共に物乞いに歩くべし。国民の賤家が戦火で焼かれたる時は、宮殿にも城にも火を放ち炎上させるべし。そして就中、前線の露と消えし一個の国民の命を購うべく、一人の王または一人の大臣が祖国のために「名誉の死」を遂げて安らかに葬られるべし。戦争を扇動した新聞記者については、10人一束にして、一兵士の命を購うべく、人質として拘留されるべし。」


「政治家は国民の下僕である」というのは嘘だ。「政治家は国民を戦場へ送り出す人々」なのだから。新聞記者はこれに与(くみ)する連中だ。社会の木鐸(ぼくたく)であることをやめて、政府のスポークスマンやメッセンジャー、あるいは太鼓持ちに成り下がることは決して珍しくない。


 いつの時代も戦争の最大の被害者は女性である。その女性に向かってエルンスト・フリードリッヒは断固として戦争を回避する具体的な行動を呼び掛ける――

「否(ノウ)」――この言葉を絶えず唱えよう。そして、唱えたとおり実践せよ。そうすれば、すべての戦争は遂行不可能になるであろう。全世界のすべての資本、すべての王、すべての大統領は、全世界の全国民が蜂起して「否(ノウ)」を叫んだ時、一体何ができるのか。
 そして汝ら女性たちよ。万一汝の夫が心弱い時、夫に代って汝自身がこの仕事を遂行せよ。夫との愛の絆は軍隊の命令よりも強いことを立証せよ。夫を前線に行かせてはならない。夫のライフルを花で飾ってはならない。夫の首にしっかりと手をまわせ。出発の命令が下っても、夫を行かせてはならない。すべての鉄道を破壊せよ。そして、身を投げて列車の前に立ちはだかれ。女性たちよ、汝の夫が心弱き時、これらを実行せよ。全世界の母たちよ、団結せよ!


 力なき者が「ノー!」と叫ぶ時、時代の歯車は回り始める。その叫び声こそが時代の軋(きし)む音なのだ。バスの運転手から白人に座席を譲るよう促されたローザ・パークスも「ノー!」と答えた。ここからバスボイコット運動が燎原の火の如く広がり、黒人の公民権運動へと発展した。ネルソン・マンデラアパルトヘイト(人種隔離政策)に対して1962年から1990年まで「ノー!」と叫び続けた。インドにおいてはアンベードカルカースト制度に「ノー!」を叩きつけた。


 時代の悪を炙(あぶ)り出すのはかくの如き反逆者であった。彼等は自らの危険を顧みることなく、自分よりも大きいもののために闘った。


 エルンスト・フリードリッヒも間違いなく反逆者の一人だ。


Ernst Friedrich(画像検索)
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