古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

戦後教育に彗星の如く現れた生活綴方/『山びこ学校』無着成恭編

 ・戦後教育に彗星の如く現れた生活綴方
 ・ゲラゲラでんぐりかえるほど笑った

『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』佐野眞一


 今月の課題図書。若き無着成恭が取り組んだ生活綴方の結晶である。児童達の作文はゆったりとした方言を交えながら、生活と社会を実に鋭く見据えている。貧しい境遇に対して怨嗟(えんさ)の声を上げるどころか、その原因を調べるべく役所へ行って村の予算を調べたりしている。昭和20年代前半に書かれた作文でありながら、戦争に対する記述が殆どない。これ自体が地方――なかんずく山間部――の貧困を雄弁に物語っている。


 どの作文も面白いのだが、やはり白眉は冒頭にある江口江一(えぐち・こういち)の「母の死とその後」と題した作品だろう。後に文部大臣賞を獲得し、山びこ学校の名を全国に轟かせることになる。

 その次の日、忘れもしない11月13日の夜があけないうちです。母が入院している村の診療所から六角(地名)の叔父さんに、叔父さんのうちから僕のうちに「あぶない」というしらせが来て、みんな枕もとに集ったとき、そのことを報告したら、もうなんにもいえなくなっているお母さんが、ただ、「にこにこっ」と笑っただけでした。そのときの笑い顔は僕が一生忘れられないだろうと思っています。
 今考えてみると、お母さんは心の底から笑ったときというのは一回もなかったのではないかと思います。お母さんは、ほかの人と話をしていても、なかなか笑わなかったのですが、笑ったとしても、それは「泣くかわりに笑ったのだ。」というような気が今になってします。それが、この死ぬまぎわの笑い顔は、今までの笑い顔とちがうような気がして頭にこびりついているのです。
 ほんとうに心の底から笑ったことのない人、心の底から笑うことを知らなかった人、それは僕のお母さんです。


【『山びこ学校』無着成恭〈むちゃく・せいきょう〉編(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)】


 実は最近朗読に挑戦しており、この部分を録音したのだが胸が詰まり声が震えてしまった。逝去から三十五日を迎える前日に書かれているが、淡々と綴られており感傷的なところが全くない。貧困は母親の死を悲しむ機会すら奪っていた。


 山元村の子供達は幼い頃から重たい荷物を日常的に背負わされる。「あとがき」によれば中学生部門で江口が表彰された際、小学生部門を受賞した5年生よりも身長が5センチほど低かったという。

 山元村の子供たちは二宮金次郎の像を見て笑い飛ばしたという。「あればっかりのタキギを背負ったんじゃ、いくらでも本が読めらあ」と。少年たちは「頭を遙かに越える高さから、足のふくらはぎくらいにまで達するたきぎ」を背負うのが日常だった。


【『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年佐野眞一


 貧困は死を身近なものとして引き寄せる。生活することは文字通り「生きる」ことであった。そうでありながらも作文の大半は朗らかだ。笑い声がそこかしこにさざめいている。


 人と人とが助け合わなければ生きてはゆけなかった。そして半世紀を経た今も貧困はなくなっていない。なくなったのは「助け合う精神」と「衒(てら)いのない笑い声」だった。


 今年の春、山元中学校は閉校したそうだ(「川越だより」による)。