古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

暴力的反逆と精神的反逆/『道徳教育を超えて 教育と人生の意味』クリシュナムーティ

 国家、社会、組織、集団は個々人に帰属意識を求める。このため上層部にいる者ほど集団の利益を強調し、「それこそが正しい」と人々に呼び掛ける。閣僚は国益を叫び、保守系評論家は「日本人の誇り」を訴え、部課長は売り上げ目標達成を命ずる。


 組織や集団には必ず目的がある。というよりも、目的のために人々が組織されるのだ。この目的が変わることはあり得ない。企業がサークルになることはないし、政治結社になることもなければ宗教法人になることもない。


 つまり目的が「原理」と化しているのだ。原理は人間を縛る。そして原理は功罪を決める。手法に異を唱える者はいても、目的を批判する者はまずいない。なぜなら、目的を批判してしまえばそこに自分が存在する理由が失われてしまうからだ。集団内には改革はあっても革命はない。集団が分裂する場合においてすら改革にとどまっているのが実状だ。


 社会にはルールがあり、家にはしきたりがあり、企業には内規があり、国家には法律があり、教団には教義がある。緩やかなつながりよりも、強い関係性の方が功罪の度合いが深まる。反逆する様は集団に応じて次のように形容される──エキセントリック、天(あま)の邪鬼(じゃく)、変わり者、不良、改革派、反主流、外様、変質者、無法者、棄教者、裏切り者、悪魔。


 自分よりも権力のある人物と闘う場合には何らかの力を発揮しなければ勝ち目がない。一番わかりやすい力は暴力である。子供が父親をこてんぱんにしてしまえば、家庭内は子供の天下となる。引きこもりだって、考えようによっては「柔らかな暴力」である。家族全員をシカトしているわけだから。


 力というものは、どのような種類の力であってもそこには暴力性が潜んでいる。力の本質は暴力なのだ。


 そして暴力を正当化すると、その延長線上にテロ行為が浮かび上がってくる。しかし、テロですら革命たり得ない。テロが為し得るのは部分的な破壊であり、全体を木端微塵にすることは不可能である。要人の暗殺、ビルの爆破、サリンガスの噴霧で国家が転覆することはあり得ない。


 ここまで考えると、革命の意味を我々がはき違えていることに気づく。歴史上に輝かしく記されている革命は本当の革命だったのだろうか? 一体全体、何が「革(あらた)まった」というのか? その実体は統治者の変更に過ぎないのではないだろうか?


 クリシュナムルティは反逆には二種類あると説く──

 安楽の問題を追及して、私たちは葛藤が少い静かな片隅を見出す。そしてこの一角から飛び出ることを恐れるようになる。人生を恐れ斗いを恐れ、新しい経験を恐れて、冒険的精神を失うのである。私たちの社会で行われている躾けとか教育というものは、私たちが隣人と違っていることを恐れさせ、社会のしきたりに反逆して考えぬくことを恐れさせ、間違った権威と伝統を尊敬させるという役割を果たしている。
 幸いにも、人間の問題を何の偏見も持たずに検討してみようと構えている人たちも少数ながら存在している。しかし圧倒的に多数を占める人たちは、義憤や反逆の精神をもたない。いいかげんな態度で世のなりゆきにまかせてしまうと、反逆的精神などというものは死にたえ、生活することがまず第一の必要とあって、批判的精神に完全に終止符が打たれる。
 反逆といっても実は二種類ある。まず暴力的な反逆ということ──これは何もわからずに現存の秩序に対してただ反抗するだけのものである。次に、知性の根源における精神的反逆というものがある。(この二つは区別しないといけない) 既成の権威に反抗しても、それが新しい権威になり、幻想とかくれた自己満足だけのものになってしまっている大勢の人々を、私たちは見かけている。つまり通例起こることは、私たちがある集団や理念と手を切っても、今度は別の集団と理念につながっていくということなのである。こういう仕方は、ちょっとした新しい思想形態をつくり出すだけで、やがてこの新しいものに対しても反逆することが始まるということである。たんなる反動は反対を生み、この種の改革は安らぐところを知らない。
 だがこれに対し、たんなる反動ではない賢明な反逆というものがある。これは自分の思想や感情を自覚することによって、自己認識をしていくことに伴う反逆である。それは私たちが、進行しているままの経験を直視し、めざめた知性をもって苦難を逃避しない時に生まれる。いまめざめた知性といったが、それは直感といってもよい──この直感こそ人生における真の指標なのだ。


【『道徳教育を超えて 教育と人生の意味』クリシュナムーティ/菊川忠夫、杉山秋雄訳(霞ケ関書房、1977年)】


「暴力は反動に過ぎない」という指摘が、私の脳髄を直撃する。つまり、暴力的な革命は抑圧による反動であり、それは縮んだバネが元通りになっただけのことなのだ。革命によって到来したのは「新しい時代」ではなく、「新しい統治者」であった。政治主義や社会形態が激変したところで、資本主義の競争原理に変更が加えられることはない。


 競争は暴力であり、暴力は競争である。プロ格闘家も拳銃には敵(かな)わない。暴力はお金で買える。ということは、お金も暴力なのだ。


 究極の問題は二つだ。「暴力」と「集団」である。歴史上の革命が真の革命たり得なかったのは、古い集団が新しい集団になり代わっただけであったためだ。人間とは「集団を形成する動物」なのかもしれない。だが集団がヒエラルキーを構築し、競争に拍車をかけるのだ。結局、集団形成こそが暴力の温床となっている。


「直感」という翻訳よりも、「直観」「直覚」とするべきだろう。精神的反逆とは、社会に条件づけされた自分に反逆することであった。自分の中に反逆を肯定する心と否定する心とがあるうちは、そこに分裂が存在する。自立とは自分に依(よ)ることであるが、自分を観察するためには自分から離れた視座が求められる。


 世界は、自分と自分を取り巻く人間関係の中にしか存在しないとクリシュナムルティは教える。だからこそ、自分が変われば世界が変わるのだ。彼は一人で荒野を歩んだ。後に続く者が多いとか少ないとかは全く問題にしなかった。人類という名の荒寥(こうりょう)な大地に花は咲かなかった。しかし、彼の内側に全てのものが収まっていた。