「比較が分断を生む」の続き――
比較が分断を生み、分断がヒエラルキーを形成する。企業は信用力でランク付けされ、企業内では肩書きによって序列が構成される。家庭や地域においても同様である。ヒエラルキーは入れ子構造となっている。その全てが「比較」という思考に支えられている。辛うじて比較から離れているのは、気の置けない友人のみであろう。
初めて会った人と話をする時、我々は知らず知らずのうちに相手と自分を比較し、礼儀を払うべきか払われるべきかを測定する。つまり上下関係を確認するわけだ。クリシュナムルティは比較という「相対性の業(ごう)」が言葉につきまとっていることを明らかにする――
比較がないときに、〈清廉さ〉があります。清廉さは「あなたは、あなた自身に忠実だ」ということではありません。そうであれば、あるかたちの測定になります。しかし測定がまったくないときには、〈全体性の資質〉があります。自我の核心、つまり〈私〉は、測定です。測定があるときには、断片化があります。このことはひとつの観念としてではなく、現実として、深く理解されねばなりません。
ここで述べたことを読むとき、あなた方はそれをひとつの観念や概念として抽象化するかもしれませんが、抽象化は別のかたちの測定です。〈ありのまま〉には、測定がありません。どうか心を用いて、このことを理解してください。もしあなた方がこのことの意味を十分に把握すれば、あなた方と生徒との関係やあなた方の家族との関係は、何かまったく違ったものになることでしょう。ですがもしあなた方が、「その〈違ったもの〉というのは〈もっとよいもの〉なのだろうか」と問うのであれば、あなた方は測定の輪の範囲に取り込まれてしまいます。それではだめなのです。あなた方が言葉を〈非−比較的に〉用いるときに、違いが分かることでしょう。私たちが用いるほとんどすべての言葉は、この測定の感じをもっていますので、言葉は私たちの反応に影響を与え、反応は比較の感覚を深めます。言葉と反応は相互に関係し合っており、〈術〉は「言葉によって条件づけられないこと」に在るのです。それは「言語が私たちを形づくらない」ということを意味しています。言葉を、言葉に対する心理的反応がないようにして、用いなさい。
既に述べたように、私たちは「精神の堕落の本質や、私たちの生きかたについて、お互いにコミュニケーションすること」に関心をもっています。〈熱中〉は〈情熱〉ではありません。あなた方はある日何かに熱中するかもしれませんが、次の日にはさめてしまいます。あなた方はフットボールに熱中するかもしれませんが、それがあなた方を楽しませないようになると、興味を失います。しかし情熱は何かまったく異なるものです。情熱には時間によるずれがありません。
【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】
難しい。クリシュナムルティ・マジックはここにおいて形而上と形而下を激しく往復する。さながら量子の如く粒と波との姿で翻弄し、捉えどころがない。あるいは一回転しても同じ形に見えず、二回転することで同じ形となる1/2スピンをもつ粒子のようだ。
ロバート・パウエルの人物評は正確に的を射ている。ニュートンはアリストテレスを葬った。
- 空間内に絶対的位置は存在しない/『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・W・ホーキング
そして、今度はニュートンが一敗地にまみれた。アインシュタインによって「絶対時間」が否定されたのだ。時空は歪んでいたのだった。クリシュナムルティは「思考を司る意識は過去の過程」であり、我々が思考に支配されている限り「過去のコピー」に過ぎない存在であると指摘する。そして、「ありのまま」の自分を観察することで、内なる世界が広大にひろがり、圧倒的な静謐(せいひつ)に覆われる空間に出会うことができるとしている。クリシュナムルティが否定したのは、思考や意識や言葉の持つ絶対性であった。革命とは絶対性の否定である。
しかし、「比較のない言葉」を使うことが可能だろうか? 旅先で見知らぬお年寄りと語る時それは可能になる。道端で倒れている人を見て駆け寄る時それは可能となる。外国で親切な行為に触れた時それは可能となる。あまり怖そうに見えない宇宙人とテーブルで向かい合う時それは可能となる。
おわかりになるだろうか? 我々は何の先入観も持たない時、比較から自由になっているのだ。先入観とは過去の印象である。つまり、相対性から脱却するには、過去という呪縛から解き放たれる必要があるのだ。
ここまで思索して、初めてクリシュナムルティの言葉が完全な円を成していることが理解できるのだ。我々が誰と出会っても、まるで初めて会ったような心持ちで振る舞うことができれば、世界は完全に平和となる。