古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

あなたは人類全体に対して責任がある/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 世界各地を飛び回るクリシュナムルティが、インド・アメリカ・イギリスの各学校に宛てて書いたメッセージが収められている。1978年9月から1980年3月分。いずれも簡にして要を得た文章で、クリシュナムルティの思想を理解しやすいものにしている。いつもの挑発的でトリッキーな言葉も少ない。


 偉大なる人々は皆「人類の教師」であろう。それはただ単に知識を教え授けるものではなく、人類を自由の方向へと指し導く人間性に裏打ちされている。言葉だけでは足りない。言葉に吹き込まれた何か、そして言葉にはならない何かがシンボルとしての言葉に仮託されて、人々の心を揺さぶるのだ。


 クリシュナムルティは学校関係者に対して「責任」の意味を問い掛ける――

〈責任〉という言葉は、その言葉のすべての意味において、理解されなければなりません。〈責任 responsibirity〉という言葉は、〈応答する respond〉から来ていますが、〈応答〉というのは部分的な応答ではなく、全体的な応答です。その言葉はまた、その背後への注目、つまりあなたのバックグラウンドに対する応答を含んでいます。それはあなたの条件づけにまで戻って注意を向けることです。
 次第に理解されると思いますが、〈責任〉は人間の条件づけに対する行為です。それが自国のものであろうと外国のものであろうと、人間の文化、および人間がそこで生活する社会は、自然に精神を条件づけます。このバックグラウンドから、人は応答します。そしてこの応答は、私たちの責任を限定します。
 もしその人がインドやヨーロッパやアメリカで、あるいはその他の場所で生まれたのであれば、彼の応答は宗教的迷信――どんな宗教も迷信的な構造をしています――、ナショナリズム、科学的理論などに従ったものになるでしょう。それらは人の応答を条件づけます。応答はいつも限定され、限界をもっています。したがって、いつも矛盾や葛藤や混乱があるのです。これは避けられないことであり、人類のあいだに分裂をもたらします。どんなかたちであっても、分裂は葛藤と暴力ばかりでなく、最後には戦争をもたらすに違いありません。
〈責任がある〉という言葉の実際の意味と、世界で今日起こっていることを理解すれば、「〈責任〉は〈無責任〉になってしまった」ということが分かるでしょう。「なにが無責任であるか」を理解することで、私たちは「なにが責任であるか」を把握し始めるでしょう。責任は、その言葉が意味するように〈全体に対する責任〉であり、自分自身、自分の家族、いくつかの概念、あるいは信念に対する責任なのではありません。〈人類全体に対する責任〉です。
(15th November 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)以下同】


 条件づけは、責任を限りなく義務に近づけようとする。周囲から責任を問われる時、責任は既に義務と化している。「責任を果たせ」という言葉は「義務の履行」と何ら変わりがない。古代ギリシアのポリスにおいて、シチズン(市民)とは政治参加の投票する権利と、共同体に対する防衛の義務を負っていた。義務は責任であり、責任は義務である。


 責任は「責めを任(まか)す」ことであるから、何らかの関係性の中で発生するものだ。家族やクラスメート、会社や国家など、何らかの集団・組織・民族性が関係性である。しかし実は、その関係性とは「私を巡る関係性」にしか過ぎない。つまり我々が口にする責任とは、常に部分的責任であることを免れない。だから、「〈責任〉は〈無責任〉になってしまった」のだ。



 続いてクリシュナムルティは真の責任を説く――

 私たちのさまざまな文化は、個人主義と呼ばれる個人の分離性を強調してきました。個人主義は、それぞれの人が自分の欲するように振る舞う結果になっています。また、彼の才能が社会にとってどれほど有益で役立つものであるにしても、その人自身の特定の小さな才能に縛られる結果になっています。このことは、全体主義者たちが人々に信じさせたがっていること、つまり、「ただ国家と国家を代表する権威者だけが重要であり、人類は重要ではないのだ」というようなことを、意味しているわけではありません。国家というのは概念です。しかし国家のなかに住んでいる人間は、概念ではありません。恐怖は現実であり、概念ではありません。
 ひとりの人間は、心理的には〈人類全体〉です。彼は人類全体を代表しているばかりではなく、ヒトという種の全体なのです。彼は本質的に、人類の全精神です。この現実に対して、さまざまな文化は、「人間はそれぞれ別々である」という迷妄を押しつけてきました。人類は何世紀ものあいだこの迷妄にとらわれて、ついにこの迷妄が事実になってしまいました。もし人が、自分の心理的構造の全体を綿密に観察するならば、「自分が苦しむときには、全人類もさまざまな程度に苦しむのだ」ということが分かるでしょう。もしあなたが孤独であるなら、全人類はその孤独を知っています。苦悶、嫉妬、羨望、恐怖などは、みんなにも分かっています。ですから心理的、内面的には、人間は他の人間と同じなのです。
 肉体的、生物学的な違いはあるでしょう。ある人は背が高く、ある人は背が低いなどということはあるでしょう。ですが基本的にひとりの人間は、全人類の代表です。したがって心理的には、「あなたは世界」なのです。あなたは全人類に対して責任があるのであって、〈ひとりの分離した人間としてのあなた自身〉に対してではありません。分離した人間というのは、心理的な迷妄です。ヒトという種全体の代表として、あなたの応答は全体であり、部分的ではありません。
 それゆえ責任は、まったく異なった意味をもっているのです。人間は、この責任の〈術〉(アート)を学ばなければなりません。「心理的には、人は世界である」ということの完全な意義をつかむならば、責任は〈抗しがたい愛〉になります。そうすれば人は、単に幼少期の子どもを世話するばかりでなく、「その子は彼の一生を通じて、責任の意義を理解するのだ」ということが分かるでしょう。この術には行動、その人の考え方、正しい行為の重要性が含まれています。私たちの学校では、地球や自然やお互いに対する責任ということも、教育の本質的部分です。学問的な教科は必要ではありますが、単にそれらを強調するだけではありません。


 世界はあなたであり、あなたは世界であった。そしてあなたは私であり、私はあなたであった。マジっすか? 大マジだ。だからこそ我々はコミュニケーションが可能となるのだ。完全に分離していれば、水と油のように交わることはできない。


「でも、どうしても好きになれない人っているじゃないッスか?」
 確かに。
「どうすりゃ、いいんですかね?」
 ウーム、困ったものだ。
「あなたにだって嫌いな人はいるでしょ?」
 大半の人間は嫌いだよ。
「でも、クリシュナムルティの旦那は笹川良一みたいなことを言ってますぜ」
 いや、笹川よりも過激だよな。
「何だか頭が痛くなってきました……」
 我々にはどうして嫌いな人がいるのだろう?
「そりゃあ簡単なこって。人の道に外れてやがるからでさあ」
 では、人の道とは何を意味しているのだろう?
「ま、人様に迷惑を掛けないってことでしょうな」
 人様にはお前さんも含まれているのかえ?
「そいつあ、もちろんでさあ」
 でも、実は人様を語りながら、そこには自分しかいなかったりするもんだよな?
「そう言われると……」
 つまり、お前さんが気に入らないだけかも知れないよな?
「……」
 で、よくよく考えると、人の道ってやつも、せいぜい親や近所の連中から教えられたことに過ぎないんじゃないのか?
「そう言われちまうと、言葉もござんせん」
 結局、人の道とはお前さんが育ってきた狭い世界の論理に過ぎないってこったよ。
「はあ……」
 だから、お前さんやあたしが人を嫌うのは、あたし達の条件づけの為せるわざってことになるわな。


 私が誰かを嫌い、憎む時、私は世界を分断する。世界を分け隔てているのは、私の反応なのだ。私は私が教わってきたものしか認めることができない。私は私を際立たせることでしか、個性を確立できない。そして私の個性は差異を殊更強調し、調和を否定する。


「自分が苦しむときには、全人類もさまざまな程度に苦しむのだ」――そんな簡単にわかってたまるもんか、ってえんだ。そう私が言う時に世界は断絶の度合いを深めているのだ。私の苦悩は、表情や声色、目の色や態度によって必ず外に向かって現われる。その瞬間、目の前にいる友人には伝わらなくとも、道往く人の誰かが私を理解するのだ。苦しみも悲しみも伝播(でんぱ)する。そして、受け取られた苦しみや悲しみは更に広がってゆく。


 とてもじゃないがにわかには信じ難い話だ。それでも信じるしか道は残されていない。クリシュナムルティの言葉は、私を殴りつけ打擲(ちょうちゃく)してやまない。


「あなたは世界であり、世界はあなたである」――クリシュナムルティのメッセージは、十不二門(じっぷにもん)が“目指すべき境地”などではなく、“知覚すべき現実”であることを教えてくれる。


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