本物の哲学・宗教は必ず教育に辿り着く。思想がもつ全人生が発揮されるのは教育を措いて他にないからだ。学問・専門領域にとどまってしまえば、部分的有効性を示したも同然であろう。
しかし現代の教育は手段と堕している。学校は工場と化して不良品を取り除き、子供たちを整形し、加工する。
小学生を見てみよう。彼らはまだ考える力もなければ判断力もない。そんな彼らにとって見知らぬ大人は恐怖の対象でしかない。だから黙って従う。やりたくもないことを次々と押しつけられる。宿題を与えることで私生活まで管理される。夏休みは絵日記や研究発表、そして図画工作とくる。まるで残業の予備演習だ。
本来、学ぶことは喜びを伴うはずだ。ところが今時の学校は学びを苦痛と同等の位置へおとしめてしまった。強いて勉めると書いて勉強とはいうなり。
私自身振り返ってみても、まともに教師と話をした覚えがない。我が人格形成に教師の存在は影すらも見当たらない。
クリシュナムルティは30歳過ぎから教育事業に着手した。インドを皮切りにアメリカ、イギリスにクリシュナムルティ・スクールを創設した。本書はイギリスのブロックウッドパーク校の生徒と教職員との討論が収められている。
クリシュナムルティ●世界で何が起きているか知っていますか? ハイジャックや欺瞞、露骨な嘘、反乱、インドの混乱や不幸。それらについて読むとき、それらは君たちにとって何を意味しますか? それとも、そういうことについては読みませんか──世界で起きていることには気づかないですか?
質問者●その多くは非常に悲しいことですね。
クリシュナムルティ●悲しいというのはどういう意味ですか?
質問者●一部の人間が他の人々を支配し、多くの人々を傷つけているということです。
クリシュナムルティ●しかし何世紀もの間それが続いてきたのです。歴史全体がそうなのです。それについてどう思いますか?
質問者●実のところ何も感じないのです。
クリシュナムルティ●なぜ何も感じないと言うのですか?
質問者●テレビで人々が殺されているのを見ます。見つめてみるのですが、その人々が本当に殺されているという実感がしないんです。
クリシュナムルティ●君はそのすべてにおいてどんな役割を果たすのですか?
質問者●僕はその一部ではありません。
クリシュナムルティ●では、それに対して君はどんな関係がありますか? ヨルダンやアメリカといった、どこか「向こうで」起きていることですか?
質問者●ときどき胸にこたえて、あの人たちの思いを感じとれるときもあります。
クリシュナムルティ●人はこのすべてを変えなければならないと思いますか、それとも自分には何もできないと思うのですか? 君は世界とどんな関係があるのでしょう? 科学技術的に進歩しつつあるとてつもない事物がある反面、その科学技術の進歩について行けない人間のぞっとするような無能力があることに気づいていますか? 人間が世界中で引き起こしている混乱に対して、君はどんな関係があるのでしょう?
質問者●自分が混乱しているかぎり、世界の混乱に手を貸していくのです。
クリシュナムルティ●それはわかりますが、しかしそれについてどう思いますか? 君の心の奥底は、それにどう応えるでしょう?
【『学びと英知の始まり』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1991年)】
クリシュナムルティは問いかける。畳み込むように問いかける。それも気軽に答えられるような質問ではない。なぜなら問われているのは「自分自身」に他ならないからだ。
しかも礼儀と節度を弁えていて、振る舞いそのものが教育となっている。
深く厳しい問いかけが漫然と生きる者の背中に鞭(むち)となって振り下ろされている。しかし責める姿勢は露ほどもない。世界を構成する同じ人間として、対等な目線で真摯な対話が行われている。
驚くべきことだが、彼は絶対に妙な優しさや情を示すことがなかった。現実に対してどこまでも知的なアプローチを試みた。
感情は一体感を高めるが永続性に欠ける。また依存心の温床ともなりやすい。時には判断を鈍らせる原因ともなる。
クリシュナムルティは講話においても対話においても英知を示した。それは知識や理性ではない。まして方法や技術でもなかった。
道、といってしまえば方向性が含まれてしまう。彼は自分に拠って立ち、人々に歩む力を自覚させたのだろう。
クリシュナムルティ・スクールは彼を宣揚する目的でつくられたものではなかった。ここがまた偉大なところだ。