菅野恭子はギーブル恭子という名前で『ザーネンのクリシュナムルティ』を翻訳した人物だ。クリシュナムルティの解説本の類いは、まず当たりがないと思っていい。読むに値するのはススナガ・ウェーラペルマくらいだ。
菅野はクリシュナムルティの教えに触れて小賢しくなってしまった人物の典型で、明らかに境界性人格障害の傾向が見られる。単なる悪口と受け止められるといけないので、きちんと説明しよう。
本書は、クリシュナムルティが創立したインドのリシバレー校に滞在した手記である。クリシュナムルティの没後であるため、いわば学校体験記といった内容だ。
この時ばかりは、早朝からわざわざ私たちのためにお弁当をつくってくれた村人たちのことが思い出されただけでなく、貴重なチーズを無駄にする気持ちには到底なれなかったため、我慢して食べることにしました。
【『リシバレーの日々 葛藤を超えた生活を求めて』菅野恭子〈かんの・きょうこ〉(文芸社、2003年)以下同】
現地の人々の善意に対して「我慢」という言葉を吐く神経が尋常ではない。菅野は村人の善意と自分の好き嫌いを同列に論じている。そもそも本に書くようなことではないだろう。自我の境界が崩れている証拠である。
ダダ氏は講和をするだけあって、確かに彼なりに何かを掴んでいるとは思います。しかし、いわば悟りの深さにおいて、そしてそれを言語表現する的確さにおいて、クリシュナムルティほどではないように思いました。
じゃあ、あんたはどうなんだ? あんたはクリシュナムルティと同等なのか? それともクリシュナムルティを上回っているとでも?
挙げ句の果てには文豪まで非難する始末だ――
この詩は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という言葉で表現されているように、賢治の理想像を描いたものだと思いますが、理想の持つ危険性に彼は気づいていなかった、と言ってよいかもしれません。
「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい」と、明治の文豪夏目漱石は小説『草枕』の冒頭の部分で書きました。が、それに対してあえて私は、「そのようにして人生をとらえるのは、自我というものについての追及が浅かったのでは」、という疑問を呈示したいと思います。(「あとがき」)
まるで幼児が覚え立ての言葉で誰かの悪口を言っているような代物である。自分を高みに置いて、軽々しい言葉を並べ立てているだけの話だ。かような人物がクリシュナムルティを理解できるわけがない。
境界性人格障害は罪悪感を覚えないところに特徴がある。善悪の概念が理解できないのだ。このため、言っていいことと悪いことの区別がつかず、人を傷つけても悪びれるところがない。
私がクリシュナムルティの解説本を読むのは、何かを教えてもらうためではなく、断片的な情報でも構わないからクリシュナムルティへの手掛かりを見出すことが目的だ。そして本書にも、確かな光彩を放つ証言があった――
転校して2年目に、またクリシュナムルティがリシバレーを訪れました。そしてある時、彼の講話を聞いていた最中に、彼の中に見たものによって、私の人生は完全に変わってしまいました。
彼は、全校生徒と教師と訪問者に向かって講話をしていました。講話が終わった後、壇上から降りると、中年の男性が彼のそばに歩み寄り、足元に完全にひれ伏したのです。クリシュナムルティは彼の体を起こして、
「なぜそうするのですか」
と聞きました。すると、その中年男性は、
「あなたは神です」
と言い出しました。クリシュナムルティはそれに対し、
「あなたが私に見出したのは、そのことなのですか」
と問い、彼自身もその中年男性の前でひれ伏したのです。中年男性はびっくり仰天しました。
私は英語がまだよくわからず、クリシュナムルティの話していることを理解できませんでした。にもかかわらず、彼の取ったたった一つの行為が、たぶんその時、彼がたまたま話していたかもしれないことの全てをわからせてくれたように思いました。人々の誰もが、クリシュナムルティは偉大な人物だと言いますが、クリシュナムルティは、そんなことには頓着せず、見知らぬ人の前でひれ伏したのです。そこにはエゴのかけらもありませんでした。私は自分が目撃していたことを信じることができませんでした。私の目は涙で潤みました。
それからというもの、私の人生は変わりました。それまでとは違った人間になりました。(マヘッシュ・パンデ)
まるで不軽菩薩(ふきょうぼさつ)そのものではないか。クリシュナムルティの場合は、相手を礼拝(らいはい/※仏教の場合は「らいはい」で、キリスト教やイスラム教の場合は「れいはい」と読む)するというよりは、むしろ「同じ人間ではないか」という平等性を示そうとしたのだろう。
「そんな真似をしてはいけませんよ」と諭(さと)すよりも、同じ振る舞いをすることで「神に額(ぬか)づく」愚かさを相手に知らしめているのが凄い。やろうと思って、できるような行動ではない。まさに「即座の智慧」が光り輝いている。
権力者は他人に頭を下げさせることで快感を覚える。人々がかしずくのは気分がいいものだ。学者はその道の権威を目指し、芸能人は有名を極めようと目論む。作家は賞の獲得に余念がなく、スポーツ選手は金メダルを欲する。
クリシュナムルティはそんなものとは無縁だった。彼はただ世界の人々と膝を交えて、生の全体性を語りに語った。