人間は人間を利用し食いものにしてきた/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ


 長いテキストなので3回に分けて紹介しよう。


 法華経の展開に広・略・要(こう・りゃく・よう)という三種類がある。広は広く全体に行き渡るもので、略は簡略したもの、要は肝要・エッセンスとなる。クリシュナムルティの言説には明らかに意図的な省略が窺える。このためワンセンテンスごとに落差が生じ、聴き手の思考や価値観が揺さぶられている間にも次の言葉が耳に入ってくる。完全に振り遅れているのだが我々のバットは止まらない。こちらが振り切った時にはボールが3回くらい投げ込まれているような具合だ。


 クリシュナムルティが我々に求めているのは「俊敏な気づき」である。しかも彼は完全なコミュニケーションを志向しているので、聴き手は即座に気づかなければならない。そして、動揺している自分の思考とクリシュナムルティが発する言葉とを、離れた位置から客観的に静謐(せいひつ)の中で見つめることまで彼は求めているのだ。


 つまり、こうだ。私の心は、私自身を観察し、クリシュナムルティを観察し、私とクリシュナムルティとの関係性をも観察するということである。クリシュナムルティ思想の中核をなしている「観察者は観察するものである」という知見にはこれほど高い抽象度が求められている。

 本書はクリシュナムルティ・スクールの教職員と生徒に宛てて書かれた手紙であるが、トリッキーな言葉がより一層際立っている。彼はわずか数行の文章で人類史の本質を浮かび上がらせる――

 人間が人間に対して行なったことには限度というものがありません。人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害し、可能な限りの方法で宗教的、政治的、経済的に食いものにしました。それが人間が人間に対して行なってきたことです。利口な人がぼんやりした人、無知な人を食いものにします。あらゆる哲学は知的ですが、それが故に全体ではありません。その哲学が人間を隷属させてきました。哲学は「社会がどうあるべきか」を考え出し、人間をその概念の犠牲にしました。すなわち、いわゆる思想家たちの理想が、人間を非人間化したのです。
 男性であろうと女性であろうと、他の人を食いものにすることが、私たちの日常生活の流儀であるように思われます。私たちはお互いを利用し、お互いがそうした扱いを受け入れています。こうしたお互いに利用し合うような特別な人間関係から、〈依存〉が生じます。依存には、それ特有のあらゆる不幸と混乱と苦しみが一緒になっています。人間は内面的にも外面的にも、自分自身に対しても他の人々に対しても、頼りないものなのです。このような情況にあって、どうして愛がありうるでしょうか?(15th May 1979)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


「利口な人がぼんやりした人を食いものにする」――これこそ社会の実態であろう。国家は国民を食いものにし、企業は消費者を食いものにし、学校は生徒を食いものにし、親は子供を食いものにしている。こうした弱肉強食の論理をクリシュナムルティは「暴力である」と喝破(かっぱ)しているのだ。つまり我々は「拷問」に加担していることになるのだ。


 例えば我々は、過去に行われた戦争について「ま、結果的に起こってしまったのだから、しようがないわな」と思い、「何らかの歴史的必然や避けられない趨勢(すうせい)によって勃発した」と考えている。この手の書籍や研究も実に多い。しかし、「あの人物やこの判断がなかったら違う結果になったかもしれない」「アメリカが日本への原油輸出をストップしたのがそもそもの原因」といった論調は、スポーツ観戦と何ら変わりがない。ま、しょせん野次馬ってことだな。


 だがこの野次馬根性が軽々しく扱われることはない。国民である以上は国家の歴史を学ぶのが当然だ→国家がいかなる歴史によって成り立っているかを理解することで自分自身のアイデンティティを確認することができる→歴史を知ることで真の国益が理解できる→国際社会の中で日本が果たすべき役割が明確になる→ってなわけで、保守政党に清き一票を投じてもらいたい、という具合だ。


 真剣に考えてみよう。「君はそれでも日本人なのか?」と「お前はそれでもジャイアンツファンなのか?」という言葉にどの程度の違いがあるのだろうか? ないね。全くないよ。ちょっとでも敵を利するような発言をすれば裏切り者の烙印(らくいん)を押され、国賊扱いされるところまで一緒だ。


 前置きが長過ぎた。つまり我々は過去の戦争を論じることで、「避けることのできなかった歴史」として容認し、正当化しているのだ。戦没者の追善供養(ついぜんくよう)をする時、私の中では当時の敵国に対する怒りが沸々(ふつふつ)とわいてくる。広島・長崎で原爆の犠牲となった人々や、東京大空襲で殺戮された人々を思うと、私の心には極太マジックで書かれたような殺意が芽生える。


 実は我々は、正しい理由があれば暴力を認めている。躾(しつけ)と称しては子供を殴り、殴らない親は暴言を投げつける。兄弟や姉妹がいれば、褒美(ほうび)で差をつける。親の言いなりになることを奨励しているのだから、一種の暴力であることは疑う余地がない。組長の言いなりになる組員や、組員の言いなりになる飲み屋のオーナーと一緒であろう。


 警察や軍隊というのは国家の安寧秩序を守るための暴力装置である。ほら、我々は社会の安寧(あんねい)を守るための暴力を認めているのだ。なぜなら、安寧を乱す者は警棒で殴られてしかるべきであり、社会の枠外に拘束されるのが望ましいからだ。


 我々の間に愛は存在するのだろうか? 「アメリカが行き過ぎているのは確かだけど、イスラム原理主義の方が何となく怖いよね」とか、「振り込め詐欺に引っ掛かる年寄りは間抜けとしか言いようがない」とか、「交通事故の死亡者数が1万人を割っているのは素晴らしいことだ」などと思っている我々に愛はあるのだろうか? 金持ちを羨む視線、成功者に媚びへつらう態度、道端にゴミが落ちていても「自分が捨てたわけではないから」と拾うこともない我々に愛はあるのか?


 我々は愛を感じることもできなければ、与えることもできないレベルにまで成り下がってしまった。人々は完全に分断され、分離した卑小な存在となったのだ。社会の機能が、生(せい)そのものをシュレッダーにかけている。


 他人を食いものにすることを拒否したいのであれば、「ただひとりある」立場を貫くしかない。そして、「ひとりあろう」と努めることが反逆なのだ。


→「比較が分断を生む」に続く


学校への手紙