古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

異なる視線/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編

 fwikさんから薦められた一冊。面白かった。とにかく紙屋克子の人柄が素晴らしい。言葉の端々にヒューマニズムが脈打っている。多分、受信料の徴収が芳(かんば)しくないNHKが、その天下り先と目される出版社と共謀し、番組をテキスト化するという割安な手法で一石二鳥を狙ったシリーズなのだろう。それでも、いいものはいい。


 紙屋は授業に先立ち、子供達にゲームをさせる。ここに実は深慮遠謀があるわけだが、まあ見事な手腕である。ゲームはこうだ――子供達は一対一で向かい合って1分間見つめ合う。最初は「無関心」で。次に「興味深く」見つめる。

 それから「相手のことをよく知りたいなあ」と思ってよく見ると、さっきは見えなかったものが見えてきたということも起こった。無関心のときはどこに目をやったらいいいか困っていたので、その1分間がちょっと長かった。


【『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編(KTC中央出版、2001年)以下同】


 単純なゲームでありながら、「注意深く見る」ことの重要さを雄弁に物語っている。「ものが見えている」状態は二つの瞳の焦点が合っていることを意味するが、集中度によって見えてくるものが異なる。つまり、光学機器の倍率と同じなのだ。全体を俯瞰(ふかん)する時であれば望遠鏡を使うべきだ。しかし、一人の人間を見つめる場合は顕微鏡、あるいはレントゲンやMRIの視線が求められるのだ。


 自分の生活を振り返ってみよう。目には映じているが、見ていないものの何と多いことか。女性が丹念に化粧を施す時、じっと鏡に見入る。たとえ、それが無駄な抵抗であったとしてもだ。その程度(失礼)の集中力で我々は周囲の人々を見ているだろうか? 同様に、自分の人格や来し方や思想や生きざまを見つめたことがあるだろうか?


 例えば山の中で、今まで見たこともない美しい花を発見したとしよう。あなたは時が過ぎるのも忘れて、ただじっと眺めることだろう。この瞬間、「観察するもの」と「観察されるもの」との間に分離は存在しない。完全に一体化している。これが、クリシュナムルティの説く「見る」という行為である。ところが二度目に見る時は、「これをどうやって持って帰ろうか」「みんなに教えなくっちゃ」「そうだ、写真を撮ってブログにアップしよう」などと欲望が生じて、分離するのだ。「何という種類なのだろう?」「種はできるのかな?」などというのは、知識による分離といっていい。つまり、「花」に対して「私」が立ち上がった瞬間に世界は断絶するのだ。


 紙屋の深慮遠謀はこうだ――

(※「看護」の)もう一つの漢字は「護」(まもる)という字です。目でよく見て、相手のことをよく理解しようと思って見て、「大丈夫ですか」って、手を当てて護ってあげること、それが看護ということなのです。


 何て素敵なオバサンなんだろう! 私はいっぺんに紙屋が大好きになってしまった。


 紙屋は重度の意識障害患者を蘇生させた実績で一躍全国に名を馳せた。現在は筑波大学の名誉教授。医療ではなく看護という立場で病気と向き合ってきた。それまで、病気とは医師が治すものであった。紙屋は全く新しいアプローチを切り開いたといってよい。


 人と人とが出会う一瞬に現れる何かがある。そこに歓待(ホスピタリティ)の心があれば、相手は心を開くものだ。紙屋は「ナースの仕事」を深く追求しながら、「患者という人間」に出会ったのだ。きっと、紙屋の瞳が善なる放射線を反射して患者を照らしているのだろう。