・プラハで学んだ少女達の30年後の真実
・ペンは剣よりも強し
・チャウシェスク大統領を処刑した理由
米原万里は9歳から14歳にかけて、プラハのソビエト学校に通った。1960年代のことである。人種が入り乱れるクラスで、最も仲のよかったリッツァ(ギリシア人)、アーニャ(ルーマニア人)、ヤスミンカ(ユーゴスラビア人)との思い出と30年後の再会が描かれている。ま、著者が通訳という仕事をしていなかったら、とてもじゃないが再会は難しかったことだろう。
ソビエトが崩壊し、衛星国であった東欧は激しく揺れる。政治体制の変化は大地震のように国民を翻弄した。再会した友は、国家に振り回されながらも逞しく生き抜いていた。
少女時代の思い出がとにかく面白い。スケールが違う。世界各国からやって来た少年少女達は国の威信をも背負っていた。しかし中にはこんな悲しい出来事もあった――
内戦が続く南米ベネズエラから来た少年ホセの言葉は、今も忘れられない。
「帰国したら、父ともども僕らは殺されるかもしれない。それでも帰りたい」
それから一月もしないうちにホセの一家はプラハを引き上(ママ)げていった。密入国した両親、姉とともにホセが処刑されたというニュースが届いたのは、さらにその3か月後だった。
【『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里〈よねはら・まり〉(角川書店、2001年/角川文庫、2004年)以下同】
ホセ少年は殺される瞬間に何を思っただろうか? 自分の血が祖国の大地に染み込むことをよしとしたのか? それとも、祖国愛を植えつけた親を恨んだのだろうか? 親にはよんどころない事情があったのだろう。そして、いつも犠牲になるのは子供達であった。
再会したリッツァが自分の父親についてこう語っている――
「そう。頑固だしね。プラハの春前後、編集局で毎日のように夜遅くまで会議があってね。父があちこちでワルシャワ条約機構軍のチェコ侵入に反対している発言が問題になって、自己批判を迫られたんだけれど、結局自分を押し通した。それで、西ドイツに入国したとたんに、いろんな機関が父に接触してきたのよ。まず、反共を旗印にする有名な研究所が雇うと言ってきた。月8万マルク払うって。1970年当時、労働者の平均月収が700マルクだった頃だから、法外な金額だよね。それから、亡命ロシア人の放送局も出演依頼してきた。一回のギャラが5000マルク。ハンブルグ大学も教授の椅子を用意してくれた。なのに、父ときたら、全部断っちゃうんだよ。『私は、軍のチェコ侵入に反対しただけなんだ。それで、共産党から除名されたが、私の魂は共産主義者なんだ。自分自身の魂を裏切るわけにはいかんだろう』とか言っちゃってさ。それで、仕方ないから母が料理屋始めたのよ。でも、それも一年しないうちに駄目になって。父が見つけた仕事が、シャトル稼業よ」
シャトル稼業というのは運び屋のこと。この話は信念の美徳が表現されているように感じる。だが一方では、同じ信念がホセ少年を殺したのだ。そして、異なる信念がぶつかるところに絶え間なく争いが起こる。信念は必ず正義と結びつく。正義は力を求める。かくして正義は悪に鉄槌(てっつい)を下すというわけだ。
世界中の子供達を一つの教室で学ばせることができれば、戦争が起こることはなくなるに違いない。大人達が子供に憎悪の種を植えつけているのだ。
最終章で描かれるヤスミンカの少女時代は、小説さながらの面白さ。超然とした態度のヤスミンカに魅了される。彼女の父親が語るエピソードも味わい深い。このお父さん、何とその後ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の大統領になっている。
米原はメッセージを書くことを意図的に回避しているように見受けた。複雑怪奇な政治メカニズムを解説し、こっちが善であっちが悪だと指摘したところで、世界が変わるわけではないことを誰よりも知悉していたのだろう。抑制された分だけ、静かな怒りが伝わってくる。