教育とは政治的なもの/『深代惇郎エッセイ集』

天声人語」がコラムの代表格となったのはこの人の功績が大。澄明な思考が蝶の舞うように記されている。真のリベラリズムがここにはある。

 ある中学校の先生が、生徒をつれて京都の桂離宮を見学した。美しい庭園を前に、この庭をつくるために封建大名がいかに農民を搾取したかを、熱心に説明したそうだ。それが歴史の正しい教え方だと、この先生は信じていた。
 他の先生は桂離宮に来て、これが日本文化の粋である由縁を生徒たちに教えた。このような文化遺産を守ることが民族の義務であることを、情熱をこめて語った。この先生にとって、それが桂離宮の正しい教え方だったに違いない。
 この二通りの教え方の、どちらが正しいのであろうか。あるいは、どちらが政治的に中立なのであろうか。これは厄介な問題だ。(中略)
 教育は政治的に偏向してはいけない、中立性を保たねばならない、とよくいわれる。(中略)
 しかし「党派的である」ことと「政治的である」ことは同じではない。もともと教育とは政治的なものであり、政治的でない教育などこの世に存在しないといってもよい。
 教育は子どもに対して、一定の世界観を与えることを目的としている。つまり善い人間、善い社会が何であるのかを教えようとする。そしてこの価値は、たいへん政治的なものにならざるを得ないのだ。共産主義が理想とする「共産主義的人間」と、自由主義が教える「自由人」とはその役目も違う。
 試験のカンニングを例にあげてみよう。自由社会では道徳的な罪とされる。それは各人が自分の能力をあらわすという自由競争の原理に反するから、卑劣であり公明正大ではない。だが中国で、カンニングの是非について論争が起こったことがあった。カンニング賛成論は、能力の遅れた者に、他の者が手を差しのべるのは善いことではないかというものだった。この考え方によれば、カンニングを許さないのは、自分の個人的業績だけを問題にする反社会的な行為を意味することになる。
 善い人間、悪い人間を教えようとするとき、教育はすでに一つの価値体系を選択している。だから、それは政治的な立場に立っている。(中略)
 最初の問題にかえって、では先生は桂離宮をどう教えるべきなのだろうか。
 桂離宮の味方に対立ができるのは、それぞれに政治的価値やイデオロギーの違いがあるからである。そのいずれが正しいかにせっかちな結論を出すより、人によって「正しさ」が異なるのはなぜかを教えることの方が、すぐれた教育だと思われる。


【『深代惇郎エッセイ集』深代惇郎〈ふかしろ・じゅんろう〉(朝日新聞社、1977年/朝日文庫、1981年)】


 中国のカンニング賛成論は、例えとしては頂けない。噴飯物である。こんな議論が成立すること自体、中国のイデオロギーに問題がある証拠といえよう。欺瞞の臭いがプンプンしている。


 政治とは本来技術的なものだと思う。もっと純粋に権利や利害の調整に努めるべきだろう。ところが政治にイデオロギーを持ち込むものだから厄介なことになる。向こうの理想とこっちの理想とがぶつかり合って喧嘩を始めるわけだ。


 しかも一旦政党に所属してしまうと、今度は理想に縛られる羽目となる。政治家は政党の駒と化す。党議拘束という名のSMプレイ。


 ま、養老孟司に言わせれば、人間が政治的・組織的になるのは、脳味噌がそういう仕組みになっているのだから仕方がないってことになるのだろう。アイデンティティの大部分は帰属意識に支えられているのかもね。


 もう少し、人間の「善き本能」が発揮できる社会が望ましい。奪い合うことだけが本能ではあるまい。折からの不況ではあるが、経済がよくなることよりも、消費を抑えるライフスタイルに変えてゆくことが求められているのではないだろうか。資源もエネルギーも限られた量しかないのだから、小さなパイで満足し得る生活にすべきだ。というわけで本日より、私は納豆と豆腐だけで生きてゆくことに決めた。


謝るということの国際的な重大性/『言挙げせよ日本 欧米追従は敗者への道』松原久子