・東京大空襲
・戦後を支えたのは政府ではなく女性だった
頼んでもいないのに銃後を守らされた女達が、戦後は走らされる羽目となる。男どもは、せめてお母さんの肩くらい叩いてあげるべきだろうな。
終戦のとき、なにかでみた一枚の写真を、ぼくはいまでもおぼえている。
汽車であった。いっぱいの人がぶら下っていた。タラップにまで二重三重になって、それでもあふれた人たちが、機関車の前部にもぎっしりしがみついていた。
ほとんどが女の人である。どろどろのモンペにリュックを背負い、包を下げていた。芋であろう。
政府なんて、なんの役にも立たなかった。しかし、デモ行進などやっている余裕もなかった。ギロンしているひまに、家族の今夜の、あすの食べる分を工面しなければならなかったのである。
女たちは、だまって、買い出しに出かけていった。ながいあいだ、吹きっさらしのホームで汽車を待って、家畜以下のざまで、運ばれていった。やっとのおもいで手に入れた50キロ70キロの芋を背負って、歩きつづけ、ぶら下りつづけ歩きつづけて運んだ。
終戦直後、ぼくたちの飢え死を救ったのは政府でも代議士でも役人でもなかった。この機関車にすずなりになった異様な写真をみたまえ。ぼくらを飢え死から救ったのは、この人たち、ぼくらの母や妻や娘や姉だったのだ……
(昭和38年5月)
いざとなると男は弱いものだ。だから、子供の生めない身体構造となっているのだろう。男達は将来を考えるあまり呆然としていたに違いない。
ま、本当のところは男も女も食糧確保のために奔走したはずだ。たまたま花森安治の見た写真がそうだったというだけの話だろう。でも、やっぱり、戦地から引き揚げてきた男達は、大いに自信を喪失したはずだし、「食べ物を分けてもらうのは女子供のすること」という逃げ口上を用意していたことだろう。
私の祖母は既に亡くなっている。せめて、往時の苦労を聞いておくべきだった。戦争は過去の歴史となったものの、平和な時代にあっても母や妻に感謝を怠ってはなるまい。
私が生まれる直前に書かれた文章であり、それだけに思い入れも深い。