多分、老いに差し掛かった年齢で読めば違った感想を抱くことだろう。40代の私にとっては、枯れた印象しか残らなかった。あるいは、朽ち果ててゆく人間の意地や悪あがきといったところか。
『人間臨終図巻』が持つ濃厚さとは無縁だ。勢いの弱くなった筆文字を思わせる文体である。そこに山田風太郎の生活感が滲み出ている。
山田風太郎の魅力は飄々とした軽やかさにある。自由とわがままの間を思考がヒラヒラと舞う軽妙さ――この一点において山田は頑固の度を増す。山田風太郎は何事にもしがみつくことがない。敢えて言えば「何事からも離れている」自由を堅持している。
そんな人物が70代となり、晩飯に固執する――
いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。
といって、別にいまこれといった致命的な病気の宣告を受けたわけではない。72歳になる私が、漠然とそう感じているだけである。病徴というより老徴というべきか。
「つひにゆく道とはかねてききしかどきのふけふとはおもはざりしを」
という古歌を知っている人は多かろう。この「つひにゆく」を「つひにくる」と言いかえて老いと解釈すれば、人生はまさにその通りだ。
冒頭に配されたエッセイはかなり話題を呼び、新聞のコラムなどでよく引用されていたように記憶している。そして著者は、残された「千回」のメニューを計画するのだが、その通りに実行されることがない。食い意地を張ってはみたものの、やはり山田風太郎は山田風太郎であった。
私は食べ物にうるさい方ではないので、死の前日であったとしてもご飯と味噌汁、納豆と冷奴(ひややっこ)があればそれで構わない。だが、山田風太郎が書いた「晩飯」とは暗喩(メタファー)であろう。そこに気づいた時私は思った。「残りの人生で、あと何人の人と出会えるのか」と。
きっと私の人生の登場人物の数は決まっているはずだ。当然、敵役もいれば、通りすがるだけの通行人みたいな人もいれば、友情という彩りを添えてくれる人々もいることだろう。その中で、私に刺激を与え、人格を突っつき、私という存在を投げ飛ばすような人物との出会いを私は求める。
刺激と反応が進化を促進する。この人生は、私がどこまで進化できるかを試すものだ。だから私は人と会い、それと全く同じ気持ちで本を開くのだ。