教育という関係性/『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二

 ・学校教育はパンを求める子供に石を与えている
 ・教育という関係性

『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二
『自由の森学園 その出発』遠藤豊


 林竹二は稀有(けう)な教育者だ。教育論といえば、制度のあり方を論じるか、あるいは教師に“神の役割”を押し付けるかといった方向になりがちである。だが林は、「教育技術」を真摯に追求した。


 林竹二宮城教育大学学長を務めた後、全国の学校を行脚(あんぎゃ)した。そこで一教師として生徒と向き合い、勝負を挑んだ。林にとって授業とは真剣勝負そのものだった。学ぶことは変わることであり、生徒が変わらなければ学んだとはいえない――これが林の信念だった。


 本書にはたくさんの写真が配されている。この写真の意味を知りたいなら、本書を開く前に、『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』(筑摩書房1984年)を読んでおくことを勧めておく。


“教師という偶像”が保たれていたのは、多分「3年B組金八先生」(TBS、1979年)あたりまでだろう。教育はまだ“美しい物語”だった。しかし、だ。この番組は、教育崩壊の予兆を感じさせる匂いを放っていた。まず、放映当初から指摘されていたが、先生役の武田鉄也が長髪だった。次に、第一シリーズの全23回のうち6回にわたって、浅井雪乃(杉田かおる)の妊娠を巡る内容となっている。命の大切さを教えるために、「中学生の妊娠」という事件を必要としたのだ。これは、やり方が汚いと思う。


 私はこの番組を少ししか見てないが、間違いなく「愛する二人がきちんと責任をとって前向きに生きてゆく」ストーリーになっていたはずだ。こんな単純で馬鹿げた展開であっても、中学生ならコロリと騙される。ま、ゴキブリがホウ酸団子を食らったような状態だろう。つまり、愛があれば妊娠に至る行為は正当化されるってことよ。むしろ「性交化」と言うべきか。ここにおいて教育は、妊娠を取り巻く付随行為に格下げされているのだ。武田鉄也はその後、坊主みたいに説教臭い話し方をするようになった。


 余談が過ぎた。現代においては、その殆どが職業教師であろう。私はそのこと自体を否定はしない。教師というだけで妙な聖性を求めるのは、職業による逆差別であると言ってよいだろう。しかしながら、小中学生という季節に及ぼす教師の人格的影響は決して無視できない。ここに、教育問題の行き詰まりがあるのだと私は思う。


 その意味から、以下のテキストを「教育的関係」にある全ての大人に捧げよう――

 ――とくに切り捨てられるという状況に追い込まれた子どもたちにとっては、先生というのは、何ともこわい存在になっているようですね。


 だから、そうさせるものはいったい何なんだろうかということをじゅうぶん掘り下げて考えてみる必要があると思うんです。もちろんこれは、教師だけの責任にしてそれで片づく問題ではないだろうとは私も考えています。教師だけの力ではどうすることもできない力がいろいろ働いて、それが教育の方向を左右する場合も少なくない。そういう問題が当然かかわってくると思います。そのことはお話の中でだんだん考えていかなければならないと思うんですけれど、私は、教師にとって、子どもというものが教える対象でしかないということ、あるいは教える対象としてしか子どもを見ることができないという事実が根本にあって、教師をひどく冷たい、非人間な存在にしてしまっているように感じているのです。


 ――教える対象でしかないということは、ただ単に一方的に教えるだけ、ということでしょうか。


 そう。「教える」という行為以前の教師の姿勢に問題があると思うんです。子どもにたいして、人間と人間として向き合うという場面がなくて、あらゆる瞬間に、片方が教師であり、片方は生徒であるという、そういう関係でしか子どもに対していないということが、やはり問題ではないかという気がするのですけれど。


【『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二〈はやし・たけじ〉(径書房、1981年)】


 林の指摘は正しいが、果たして今そこまで教師に望んでいいものだろうか。モンスターペアレントに戦々恐々としながら、学校という学校は教師に対してラインオーバーすることを許さない。ひょっとすると、教師も親も社会の犠牲者なのかも知れない。


 そんなわけのわからない時代になればなるほど、林竹二の影は巨大に伸びてゆく。林の真っ当な正論を読むたびに、「人間がどんどんいなくなってゆく」という不安が私の中で蠢(うごめ)く。