学校教育はパンを求める子供に石を与えている/『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二


 今年の頭に再読。多分、またいつの日か読むことになるだろう。


 林竹二を知らない人は、『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』(筑摩書房)、『授業 人間について』を先に読んでおくべきだ。すると、本書のインパクトが倍増する。


 宮城教育大学の学長を務めた後、林竹二は全国を行脚しながら授業を行った。その多くは小学生を対象にしたものだった。時には、教育から見放されてきた人々の中にも飛び込んだ(湊川高校、南葛飾高校の定時制)。


 授業で奇蹟が起こる。生徒という生徒は老若を問わず、自分の内面と向き合わざるを得なくなる。そして、“自分の力”で何かをつかんだ瞬間、生徒の表情は劇的な変化を遂げる。


 林竹二は子供に寄り添う。常に子供の肩に手を回し、子供と同じ方向を見据えていた。

 学びたいという願いを、子どもはみな持っているんですね。しかしそれに答えるものを学校教育は与えていない。私がよく言うように、パンを求めている子どもに石を与えているのがいまの学校教育です。そこでの優等生なんかは、石でも、うまい、うまい、というような顔をして食べてみせるわけですね。ところが、「石なんか食えるか」と言ってそれをはねつける者、拒む者は切り捨てられるのです。


【『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二径書房、1981年)】


 これは評論などではない。教育に生涯を懸けた林竹二の「怒り」だ。血へどを吐くような格闘の果てから生まれた言葉なのだ。


 こうした状況は、教育が行政主導で行われている以上、なくならないことだろう。所詮、「学力の世界ランキング」で順位を落とせば、授業料を増やす程度のことしか思いつかないのが文部科学省だ。本来であれば、教育権を別にして四権分立とするべきであろう。


 林竹二は死ぬまで教育を問い続けた。その姿は、修行者であり求道者であった。苦しみと喜びは相関関係にある。氏の苦労は、児童の笑顔となって胸に刻まれたことと察する。幼き者に寄せる情愛が慈悲の領域にまで達している。


問いつづけて―教育とは何だろうか