生産性の追及が小さな犠牲を生む/『知的好奇心』波多野誼余夫、稲垣佳世子

 ・波多野誼余夫、稲垣佳世子


 資本主義という運動会では、皆が皆走り回っている。いや違うな。ともすると、競争原理という言葉が合理を象徴しているように見えるが、実際はもっと残酷だ。足の遅い者が落伍する仕組みなのだから。つまり、資本主義は鬼ごっこなのだ。


 鬼となった連中には、漏れなく貧しい生活と苛酷な労働が与えられる。労働の対価は正当に評価されることなく、余剰価値は誰かがかっさらってゆく。多分、高額納税者の奴等だ。あいつらは、国家予算を割り当てられる恩恵に浴しながらも、労働者から平然と搾取するのだ。こうして、官僚の天下り先には潤沢な資金が提供される。


 教育現場も競争が支配している。文部省の教育大綱が見直されるのは、決まってOECD(世界協力開発機構)などによる学力ランキングの発表後だ。そもそも教員自体が、教員採用試験→教頭試験→校長試験→教育委員会という官僚コースに身を置かされている。大学教授なんてえのあ、もっと生臭い世界だろう。

 もちろん、すべての管理が否定されるべきだ、というわけではない。ただ管理の目標が、従来は「生産性を最大にする」ところにおかれやすかった点は、反省する必要があると思う。(中略)この考え方は、つきつめていくと、全体の幸福のためには、個々の小さな犠牲はやむをえない、ということになる。この枠内で考えていくかぎり、「内発性」はいつもある種の「強制された」性格を持つ。「その人自身の自己表現」ということより、「全体への貢献」が第一に要求されているからだ。


【『知的好奇心』波多野誼余夫〈はたの・ぎよお〉、稲垣佳世子中公新書、1973年)】


 教育現場における生産性とは、平均点アップ、有名校への進学と考えてよかろう。競争に勝つための管理は必然的に成果を求める。教員による児童への全人的な関わり合いなど評価の対象とならない。点数こそ全てだ。


 内発性までもが強制されているとすれば、これはもう完全なマインド・コントロール下に置かれている事実を示しているといってよい。日本人の小市民的順応性が、郷に入っては郷に従い、学校に入れば学校のルールに従い、会社に入れば会社の方針に従うことを余儀なくする。


 そもそも、全体の幸福のために我が身の犠牲を厭(いと)わないことを、我々は美徳であると信じ込んでいるではないか。これじゃあ、国家ぐるみのマルチ商法だよ。販売している商品名は「犠牲」。


 ひょっとすると我々庶民は、生贄(いけにえ)として祭壇の上で一生を過ごしているのかも知れない。


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