古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

世界中の教育は失敗した/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

 ・世界中の教育は失敗した
 ・手段と目的
 ・理想を否定せよ
 ・創造的少数者=アウトサイダー
 ・公教育は災いである
 ・日本に宗教は必要ですか?
 ・目的は手段の中にある


 クリシュナムルティトーク(講話)、質疑応答と大野純一の解説で構成されている。質疑は教員から寄せられており教育論に重きが置かれているが、未来に対して何らかの責任を感じる者に向けたメッセージとなっている。ちなみに本書の解説によれば、クリシュナムルティが立ち上げた学校はインドに大小7校、イギリスとアメリカにそれぞれ1校あるとのこと。


 教員を前にしたクリシュナムルティは質疑応答に先立って、教育問題の本質に切り込んだ――

 周知のように、世界中の教育は失敗したのです。なぜならそれは、歴史上で最も大規模かつ破壊的な戦争を二度も起こしたからです。そしてそれは失敗に帰したのですから、単にある方式を別のに取って代えることは、私にはまったくの無駄のように思われます。これに対して、もし教師の思考、感情、態度を変える可能性があれば、そのときには多分新しい文明がありうるのです。なぜなら現代文明は完全な崩壊へと向かっているからです。次に来る戦争は、われわれが知っているものとして西洋文明をおそらく清算することでしょう。多分われわれは、それによってこの国においても深甚なる影響を受けるでしょう。しかしこのいっさいの混沌、不幸、混乱、争いのただ中で、教育者の責任は確かにとてつもなく大きいのです――彼が公務員だろうと、宗教的教師だろうと、あるいは単なる情報伝達者にすぎなかろうと。ですから、もし新しい秩序が作り上げられるべきなら、生計の資を得る手段として教育の上で肥え太るだけの人々は、私に言わせれば現代の社会構造の中で何の居場所もないのです。そしてわれわれの問題は児童、少年少女というよりはむしろ教師、教育者であり、彼の方が生徒よりはるかに教育を必要としているのです。そして教師はすでにできあがり、固定しているので、教育者を教育することのほう(ママ)が、生徒を教育するよりははるかに困難なのです。彼は単に日課通りに機能しているにすぎません。なぜなら彼は実際のところ思考過程、英知の涵養に関心がないからです。彼は単に情報を与えているのにすぎません。そして全世界が自分の耳のまわりで音を立ててくずれているとき単に情報しか与えない人間は、確かに教育者とは言えません。皆さんは、教育とは生計の資を得る手段だとおっしゃりたいのですか? それを生計の手段とみなし、自分自身の幸福のために児童を利用することは、私には教育の真の目的とまったく相反するように思われます。(1984年の講話)


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)以下同】


「世界中の教育は失敗した」――なぜなら戦争を支持し、賛同し、遂行するような人間をつくってしまったからだ。脳天にツルハシを打ち込まれたような凄まじい指摘だ。


 教育の目的が人間の英知を磨くことにあるとすれば、人々の目は教育を受ける前よりも開いているはずである。いわゆるエリートと目される人々にあっては尚更で、国民を不幸のどん底に追いやる戦争に対しては身体を張ってでも阻止するべきなのだ。


 ところが現実はそうなっていない。それは、教育が行政下に置かれているため、国家の意図に沿った教育方針が実施されているからだ。では国家が求める理想的国民像はどういったものか? そりゃあ、兵隊と労働者に決まっているよ。つまり、形式を変えた奴隷だ。


 教育の隠された目的は、社会のルールを叩き込み、社会の枠組みにはめ込み、反社会性を憎む価値観を植えつけることなのだ。それゆえ子供も親もドロップアウトすることを異常なまでに恐れる。世間から「反社会的」だと思われるためだ。


 考えてみれば確かにおかしい。わずか7歳にして、さしたる説明もないまま我々は「協調」「協力」「助け合い」といった概念を刷り込まれているではないか。「個性を伸ばす」なんてのは欺瞞だ。義務教育期間においては、徹底的に個性を奪われてしまう。横に伸びた枝という枝は全て剪定(せんてい)され尽くし、後は材木になるだけという寸前まで刈り込まれる(笑)。で、社会に出たら裁断されるってわけだよ。我々は「国家を支える材木」という存在なのだ。


 教育こそが国の、そして世界の行く末を決定する。未来は子供達の中にしか存在しないからだ。否、目の前にいる子供が未来そのものなのだ。だからこそ教育の責任は思い。


 ある面から見れば教員も犠牲者である。しかしクリシュナムルティは、そんな言いわけを認めない。「大人の責任」を糾弾する――

 ですから、質問にお答えする上で、要点は教育者であって子供ではないということを銘記いただきたい。正しい環境、必要な道具等々を備えることはできますが、しかし重要なことは教育者自身が、この生存全体が何を意味するのかを見出すことです。なぜわれわれは生きているのか、なぜわれわれは苦闘しているのか、なぜわれわれは教育を施しているのか、なぜ戦争があるのか、なぜ人と人の間の宗教的紛争があるのか? こういうすべての問題を研究し、英知を働かせること、それこそは真の教師の役割なのです。自分自身には何ものも求めず、教育を地位、権勢、権威を得るための手段として用いない教師、利益のためではなく、一定の方針に沿ってではなしに真に教えるところの教師、自分自身の内に英知を培っているがゆえに生徒の内部にも英知を育て、目覚ましている教師。確かにこのような教師こそは文明の中で主要な居場所を持っているのです。なぜなら結局のところ、すべての偉大な文明は、技師や技術者ではなく、教師の上に築かれたからです。


 教育問題は大人の問題に帰着する。そして、教育されるべきは大人であった。大人自身が自らの成長を通して、子供達の成長を促すところに本来の教育がある。大人と子供が向き合っているうちはダメだ。同じ方向を見つめながら手を携え、肩を組んで共に歩むべきなのだ。そして大人の役目は、進むべき方向を指し示すことである。だがそれは、大人の都合や国家にとって有意といった方向であってはいけない。クリシュナムルティは「理想を持つ」ことすら否定しているのだ。


 真の教育は、断固として「ノー」と叫ぶ人間をつくることであろう。世界は混乱している。人々の心も穏やかになってはいない。この世界を容認しているのは我々大人なのだ。クリシュナムルティが説く「反逆」の意味はここにある。おかしいことに対して、煮え湯を飲まされるような思いをしながらも、地位や給料のために従う時、人間の心は着実に腐敗し死んでゆく。


 まず、自分自身の心に革命を起こすことだ。自分自身のエゴイズムに「ノー」を叩きつける必要がある。弱さ、ずるさ、卑劣さと真摯に向き合い、心をくまなく観察しよう。「答えは自分の中に見出される」とクリシュナムルティは教えている。


自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ