古本屋の覚え書き

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コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー

「はじめて読むドラッカー自己実現編】」と表紙にある。ドラッカー入門という位置づけの抄録。しかしながら単なる抜粋の寄せ集めではなく、ドラッカー思想のエッセンスが結実している。


 ただし、やはりと言うか、案の定と言うか、思想のドライブ感に欠ける。うねるような勢い、高鳴るリズム、沈思と昂奮のせめぎ合い、といったものが感じられなかった。


 もう一つ。上田惇生の訳がよくないと思う。略歴に経団連会長秘書、ものつくり大学教授とあることからもわかるように、所詮権力側の人物だ。悪人だと決めつけているわけではないが、コントロールする側にとって都合のいい考えが盛り込まれている可能性がある。また、ドラッカーの著作を翻訳する際は、思想的背景や価値観の根拠といったものを補強する必要があると私は思う。その意味で、民間の――できればベンチャー企業の――ビジネスパーソンによる新訳に期待したい。


「翻訳」とは一種のフィルターである。それゆえ、「翻訳された情報」はバイアスが掛かっている。だから、文にとらわれて義や意を見失えば、著者を知ることはできない。翻訳の信頼性を私が判断する基準は「腑に落ちるか否か」という一点である。ドラッカーの場合だと、部分的には痺れるテキストもあるのだが、全体的には肚(はら)にストンと落ちてこない。


 それでも、十分示唆に富んでいる。例えば、「コミュニケーションの第一原理」として次のように書いている――

 仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。今日われわれは、答えがノーであることを知っている。たしかに、音波は発生する。だが、誰かが音を耳にしないかぎり、音はしない。音は知覚されることによって、音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。神秘家たちも知っていた。「誰も聞かなければ、音はない」と答えた。
 このむかしからの答えが、今日重要な意味をもつ。この答えは、コミュニケーションの内容を発する人間、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波があるだけである。これがコミュニケーションについての第一の原理である。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生編訳(ダイヤモンド社、2000年)】


 私が10代の頃、この問いを友人のシンマチから聞いた覚えがある。よもや、禅の公案だとは思わなかった。シンマチは確か「木の枝が折れた音」と言っていた。私は少し考えてから「する」と答えたように記憶している。シンマチはしてやったりという表情になった。ただし、あいつからの説明に納得した憶えがない。


 実はこの問いがずっと心に引っ掛かっていた。実に四半世紀も引き摺っていたことになる。


 ドラッカーはこの問いから、コミュニケーションは受け手がいることで初めて成立すると主張している。この前段では、組織における上意下達型コミュニケーションに対して警鐘を鳴らしている。そして、「大工と話す時は、大工の言葉を使わなければならない」というソクラテスの言葉(※プラトン著『パイドン』)も紹介されている。


 ドラッカーの主張は正しいと思う。しかし、私がどうしても腑に落ちないのはその前提である。この問いに限らず禅の公案が胡散臭いのは、思考を揺るがすところに問いの目的があるからだ。このため、「答えはどうでもよく、お前の先入観がグラグラすればオッケー」といったあざとい印象を受けてしまう。問いに切実さがない。真剣さを欠いている。仏教の智慧とは、決して頓知ではないはずだ。


無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」――するに決まっているよ。鳥や虫達が確実に聞いているはずだ。あるいはその音波がバタフライ効果を生むかも知れない。関連性・相互性の思想に「仏教の縁起」があるが、縁起という思想は“人間の認識”という範疇にとどまるものではない。


 もっと簡単に私の考えを述べよう。「無人の山中」を想像した途端、そこに私自身が存在している。つまり、私の脳内において木が倒れる音が発生するのだ。認識・知覚というレベルを推し進めれば、バーチャルであろうと、認知症であろうと、幻聴・幻覚であろうと、本人にとっては「存在する」ことになってしまう。なぜなら、存在の本質は情報であるからだ。また反対に、実際に存在する放射能や超音波を我々が知覚することはできない。


 ドラッカーが説いているのは、企業組織におけるコミュニケーションである。私が首をかしげてしまうのは、苦悩に喘ぐ人々の声が社会に届いていない現実があるためだ。教育委員会の認識によれば、いつだって「いじめの事実はない」ことになる。この一点において、ドラッカーのコミュニケーション論は人間の本質を探るものではなく、有機的な会社組織のあり方を論じたものであると考えるべきなのだろう。


 人間同士のコミュニケーションの前提は、情報の有益性にあるのではなく、互いを人間として見つめる視座に存在する。今時ときたら、互いを貶(おとし)め合うような、マイナスコミュニケーションが多すぎる。


 尚、最後に付言しておくと、こうした考えに至ったのは、「小林秀雄は真っ当なことを言ってるのに、好きになれないのは何故だろう」というhengsu氏からのブックマークコメントの影響が大きい。記して感謝申し上げる。


・「豊かなコミュニケーションの創造に向けて」平松琢弥
対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子