古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

バイオホロニクス(生命関係学)/『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博

 読書には時機というものがある。タイミングだ。長ずるにつれ、知識の枝は天を目指して複雑に枝分かれしてゆく。そして生の現実が地中に根を張り巡らす。


 不幸にして本書はタイミングが合わなかった。1978年に出版されながら、今まで知らなかったのは、私の守備範囲が傾いている証拠といえる。残念無念。


 清水博が研究するのはバイオホロニクス(生命関係学)という分野。慧眼(けいがん)の持ち主といっていいだろう。しかし残念なことに、今となっては古臭さを覚えずにはいられなかった。以下、アトランダムに内容を紹介しよう。

 自然科学と全く交わらない「世界」が実在するかどうかは、自然科学によっては証明できませんし、また否定もできません。


【『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博(中公新書、1978年)以下同】


 これは自然科学以外でも証明することが不可能だ。世界は「ある」のではなくして、認識によって開かれてゆくものだ。つまり、「認識されたものが世界」なのだ。

 中世は形而上学の全盛時代でしかたら、自然の理解は進みませんでした。「生きていることに」についても、今から考えると事実に合わない説明がまことしやかになされ、長い間にわたって信じられてきました。


 確かに自然の理解は進まなかったが、神を頂点に据えた学問体系が統合された。自然を無視したのは、やはりキリスト教が砂漠から誕生した宗教であったためだろう。形而上と形而下も天国と地獄に由来しているような気がする。

 その上、要素還元主義によって、分子や原子の世界にまで到達すると、もうそこで問題にされるのは1秒よりも桁はずれに短い時間における変化だけです。要素に分けることは、対象を単に空間的に細かく細かくしていくだけでなく、時間の尺度をも同時に非常に短縮してしまう効果があるのです。したがって、科学の関心は必然的に「現在」に凝縮されるのです。


 科学の悪口をいう時に「要素還元主義」という常套句が使われるが、これは既に通用しない。なぜならビッグバン理論によって、宇宙の最初の姿が「点」であったと想定されているためだ。我々の物差しに合わないのはミクロ宇宙だけではなく、マクロ宇宙も同様である。

 ここに、水蒸気・水・氷を全く別の物質だと考えている科学者がいたと仮定しましょう。その人は、【三つの物質】を分析して、その要素である水の分子を探し当てたとき、大変びっくりするでしょう。水蒸気から得た水分子も、水から得た水分子も、氷から得た水分子も、全く変らないからです。このことは確かに大きな発見といえます。しかし、同時に、水蒸気・水・氷といった物質の【状態の差】は、対象を分子にまで分析してしまうと失われてしまうことが分かります。


 私が違和感を覚えたのはこの辺りからだ。「失われてしまう」という言葉づかいは明らかにおかしいし、何らかの意図が込められている。左目で顕微鏡を覗き、右目で氷を見つめれば決して「失われる」ことはない。


 多分、清水は「科学なんぞで生命を捉えきることはできないよ」って言いたいのだろう。で、身体や心をバラバラにして分析するのは無駄な抵抗だ、と。この思惑が先行しすぎている。分析と統合の双方が必要なのであって、一方的に分析を斥(しりぞ)けるのはどうかと思う。

 一般に、個々の要素の性質をそのまま単純に加え合わせても全体の性質が出来上がることを非線形性と呼びます。aとbという原因が、それぞれ単独に働いたときに現われる結果をそれぞれAとBとしましょう。いまaとbとが一緒になってa+bとして働いたときに、A+Bという結果が出るのが線形性、A+B+Xというように新しい結果Xがつけ加わったり、ときにはCという全く変った結果が出るのが非線形性です。相乗効果といわれるものはこの非線形性の効果を表わしたものです。


 非線形性という言葉は、きっと「心」を過大視している。だが、心といったところで脳のシナプス結合以外のどこかに存在するわけがない。脳科学の発達によって現代では、心=脳と考えられるようになった。

 生きている状態と死んでいる状態というのは生体という分子の集まりが持っているグローバルな性質ではないかと推定されます。だとすれば、これは気体・液体・固体などとは全く次元を異にする(生体という分子の集合体が示す)一つのグローバルな性質ということになります。


 10年前なら私は絶賛したことだろう。「生命はグローバルな性質である」というのと、「宇宙はグローバルなシステムである」という言葉にさほど違いはないだろう。無の世界からタンパク質が生まれたところに問題の本質があるのだ。

 グローバルな状態に共通の性質として相転移と呼ばれる現象が見られます。相とは互いに区別できるグローバルな状態のことをいいます。たとえば、氷・水・水蒸気はそれぞれ別の相です。また磁石が強い磁性を示す状態とそうでない状態とは異なった相ということができます。
 一般に、一つの相から別の相に物質や系のグローバルな状態が変ることを相転移と呼びます。相転移は不連続的に突然おきるのが普通です。氷を暖めて水にする時には摂氏零度で氷が急に溶けて水に移ります。水が水蒸気に不連続的に変る温度は100度です。物質の磁性にもこのような不連続的な相転移がおきることが知られています。


 書きながら段々イライラしてきた(笑)。「これは気体・液体・固体などとは全く次元を異にする(生体という分子の集合体が示す)一つのグローバルな性質」と書いておきながら、「氷・水・水蒸気」に戻っている。


 相転移というのであれば、生と死もそうだし、個人と社会だってそうだろう。しかも、相転移は観測する人がいて成り立つのだ。


 これは結局のところ、世界と時間(三世と十方)をどう捉えるかというテーマに帰着する。人生は過去から未来へと向かっているが、時間は未来から過去へと流れている。橋に立った観測者が川上を向くか、川下を眺めるかで当然世界は異なる。


 世界は認識によって開かれている。だから私が死んだ後、世界は存在しないのだ。

 統合の立場から分析を批判するのは浅ましいやり方だと私は思う。しかも統合党は、統合の未来像を示すことができていない。社会や国家の先にどのような生命状況があり得るのか、青写真くらい示すべきだろう。


 宗教や哲学には期待できそうにない。ブッダクリシュナムルティは人間としての出来が違いすぎる(笑)。となれば、レイ・カーツワイルが指摘したようにテクノロジーに期待するしかないだろう。