古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

その男、本村洋/『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫

 その男には怒りが燃え盛っていた。圧倒的な怒りが男を衝き動かしていた。怒りの矛先(ほこさき)は犯罪とそれを取り巻く社会に向けられていた。本村洋は単なる被害者ではなかった。「殺害された妻」の夫でもなかった。彼は「正義そのもの」であった。


 本書を読み終えて私は次のように書いた――

 私は事件よりも本村洋という男に興味があった。多分、それまでは真面目でおとなしい性格だったに違いない。自宅で妻の死体を発見して彼は鬼と化した。彼は文字通り正義を体現した。彼は法そのものと化した。少年は彼にこそ裁かれるべきだった。そして彼に裁かれたのだ。本村以外の誰にこんなことができただろうか。たった一つの武器は言葉であった。彼の言葉はまるで聖典だ。私は彼を法律として採用したい。


【「井上薫」2009-08-18】


 本村を賛嘆する声はネット上にも多い。

 本村洋の言葉は本当に素晴らしい。言葉が常に理路整然としていて、無駄がなく、分かりやすく、聴き入るたびに興奮と感動を覚えさせられる。聴きほれる。納得と共感で心が満たされる。何もかもが絶望的なこの日本で、本村洋は私にとって宝石のような美しい貴重な存在であり、この若い、優秀な優秀な優秀な優秀な男を、国会議員にしたいと希(こいねが)う。日本国憲法が想定する国民代表の理念型は、本村洋のような人間的資質をこそ具体要請しているのである。できればこの男を総理大臣にしてみたい。今すぐに日本国の運営を任せてみたい。


【「世に倦む日日」】


 その他の記事も実に読み応えがある。


 本村の顔は南海キャンディーズの山ちゃんと瓜二つだ。彼等が一卵性双生児であってもおかしくないほど。しかし、中身が決定的に違う。天と地よりも離れている(※決して山ちゃんに恨みがあるわけではない)。


 本書は、裁判員制度を考える上でも極めて意義のある一冊といえる。元裁判官の著者は、司法ですら陥りやすい過ちをも指摘しており、極めてテクニカルな内容となっている。


 まず、事件の概要については以下のページを参照されたい――


Wikipedia
山口母子殺人事件

 本件の事件発生が平成11年4月14日です。そして、被告人の新供述が初めて現れたのが平成18年2月27日、最高裁に事件が係属中で新弁護人の安田・足立両弁護人が初めて被告人に接見したときだと弁護人が述べています。この間流れた歳月は、約6年10か月。この間、本件事件は自白事件でした。つまり、平成18年2月27日に、それまでの自白事件が一朝にして否認事件にひっくり返ったという次第です。


【『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫文藝春秋、2009年)以下同】


 ここでいう「自白」とは、裁判での自白という意味である。つまり、閉ざされた取調室ではなく、何の強制力もない法廷において裁判官と傍聴人を前にして「自ら容疑を認めた」事実を指している。だが、一審、二審判決は「無期懲役」であった。なぜか?

 また、裁判の現場に広がっていた相場主義が、被害者の心をずいぶんと踏みにじってきました。相場主義というのは刑の重さが相場で決まるということです。


 井上は「相場主義」によるものと指摘し、検証を試みている。相場はあってしかるべきだろう。だが、相場感でのみ判決が下されるのはおかしい。それが通るなら、裁判官の仕事はコンピュータに委ねるべきだろう。

 相場主義、前例尊重主義は、「法律に基づく裁判」という憲法上の大原則に違反します。現在司法の世界では、前例尊重、相場主義が幅を利かせていますが、これは根本的に改めなければなりません。相場なんて関係ない、事件を真正面から見て真正面から判断すべきです。一件一件が真剣勝負です。前例があるからそれと同じでいいという安直な考えでは裁判はいけません。当たり前のことが裁判では認められてこなかった。前例だけ調べて、一件落着。そういう安易な裁判が多かったのです。


「安易な裁判」が多かった理由として、井上は勤務評定を挙げている。控訴が少ない裁判官ほど優秀と評価される傾向があるようだ。


 我々一般人はともすると「裁判で正義が明らかになる」と誤解している。だがそうではない。裁判で争っているのは「違法性」に過ぎないのだ。だから仮に法律が誤っていたとしても、裁判はその法律に束縛される。つまり、法律が「絶対的なルール」として機能するゲームなのだ。だから時として、新しい形態の犯罪に法律が追いつけないという馬鹿げた場面が現れる。

 実際に、ゲーデルの方法は、真犯人だとわかっていながら、いかなる司法システムSも立証できない犯罪Gを生み出したイメージに近い。司法システムは、当然その犯罪方法に対処する新たな法を組み込むだろうが、その新システムでは立証できない新たな犯罪を構成できる。これをいくら繰り返して新たな司法システムを作っても、ゲーデルの方法を用いて、そのシステム内部でとらえきれない犯罪を構成できる。したがって、すべての犯罪を立証する司法システムは、永遠に存在しないというイメージである。


【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎講談社現代新書、1999年)】


 例えばの話、憲法に反した法律だって中にはあることだろう。1997年まで存在した「北海道旧土人保護法」なんて、ネーミング自体が差別意識を声高らかに宣言してしまっている。


 法律は社会常識の合意形成を象徴したものと考えられるが、明白な悪行を裁けないとすればこんな間抜けな話はない。


 だから私は、裁判の席上で「この法律はおかしいよ」と言う機会が与えられてしかるべきだと思う。裁判員6名、裁判官3名全員が「おかしい」と判断した場合は、直ちに国会を召集し法改正を行えばいい。そうすれば法律に柔軟性が増して、社会の常識と整合性を保てる。法律は厳密・緻密・微細であるよりも、柔軟であるべきだ。その方が裁判の重みも増す。


 結局、本村洋が我々に示したのは、「法律なんか当てにするな」ということだ。本村は判決を引っ繰り返してみせた。司法が役立たずであることを証明してしまったのである。犯人の少年にしても、実際に犯した罪ではなく、刑務所内で書いた「不謹慎な手紙」によって死刑にされた感が否めない。


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