タイトルが上手い。素人向けの宗教社会学ともいうべき内容。真摯かつ真面目な考察。ま、面白味には欠けるわな。
宗教とカネ。信じる者と書いて「儲ける」とはいうなり(笑)。なぜ信仰にカネがかかるのだろうか? それは宗教が生け贄(にえ)を必要とするからだ。つまりお願い事があるなら、捧げ物を出すのが礼儀だろう。完全前払い制。延長の場合は追加料金が発生する。
2番目の理由。仏教とキリスト教の場合を考えてみよう。僧侶や聖職者が集団化すると、彼らの生活を支える必要が生じる。ブッダの時代は乞食(こつじき/托鉢とも頭陀〈ずだ〉とも)で食っていた。「お恵みを」ってわけだ。キリスト教の場合はどうだったんだろうね? 中世以降は宗教的世界侵略を実践して貿易事業などを行っていたはずだ。詳細は不明。勉強しておきます。
檀那(だんな)という言葉は仏教におけるパトロンのこと。寺社は経済的なバックアップで成り立っていた。何となく相撲や花柳界と似ている。中世ヨーロッパのクラシック音楽も同様だ。
民主主義となった現代ではどうなのか? ま、国家予算を支えているのが税金である以上、会費という形になるのだろう。好きで信仰に励んでいるわけだから、勝手に払えばよい。
ところがどっこい、そうは問屋が卸(おろ)さない。宗教団体が搾取システムと化しているケースがあるためだ。櫻井はこれを「スピリチュアル・ビジネス」と呼ぶ。
この後の商売をスピリチュアル・ビジネスと名づけたい。ネットワーク・ビジネスはモノを介在させて人の欲を取引する。スピリチュアル・ビジネスは、商品がスピリチュアルなものであるほか、取引する行為自体がスピリチュアルなサービスにもなる。若い人、生活に不安を抱える人、競争に疲れた人、誰かに何とかしてもらいたがっている人が狙われやすい。不安定な状況にある人ほど、遠い将来の確実だが小さなメリットよりも、今すぐ効きそうなものを求めるからだ。
【『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀〈さくらい・よしひで〉(新潮選書、2009年)以下同】
単なる「安心代」ならともかく、宗教の名を借りて「不安」を煽る以上、どうしたって高くつくわな。一種の「不安オークション」だ。
ビジネスの最終判断を文鮮明にあおぐ神頼みの商売には厳しいものがあった。そこで、むしろ宗教活動そのものを経済活動に転換できないかと知恵を絞って考案されたのが、姓名判断や家系図鑑定と絡めた商品の販売である。先祖の因縁や霊障を取り除く、或いは開運のためといって、1980年代に韓国から朝鮮人参茶、高麗大理石壷等を輸入して販売した。このやり方が霊感商法として80年代考案から社会問題となった。
宗教団体が世界展開する場合、どうしても伽藍(がらん)が必要になる。建物がないと法人認可が下りないためだ。で、新たな信徒を獲得するためには少しでも立派な堂宇(どうう)が望ましい。やはりカネが必要だ(笑)。
現在、統一教会員でも祝福だけでは不十分で、140万円相当の献金をして天一国と呼ばれる天国への入籍証を持たないと天国には入れないと言われている。ちなみに、祝福にも140万円の献金を必要とする。計280万円で天国に行けるのであれば安い買い物だが、統一教会員になることが条件なので、かえって高くつく可能性もある。
「祝福代」ときたもんだ(笑)。神様って強欲なんだね。開いた口が塞がらないよ。つい最近も以下のニュースが報じられた。
統一教会に賠償命令=不法勧誘で8000万円余−福岡地裁
先祖の因縁などと不安をあおって献金を強要されたとして、福岡県内の世界基督教統一神霊協会(統一教会)の元信者の女性が、教会に対し約5億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、福岡地裁であった。太田雅也裁判長は「勧誘は害悪を告げて原告を恐れさせ、献金を執拗(しつよう)に迫るものだった」として、一部について不法行為と認め、総額約8160万円の支払いを命じた。
判決によると、元信者の女性は1999〜2005年、つぼの購入や献金で4億4400万円余りを支払うなどした。
統一教会側は「献金は自由意思だった」などと主張したが、判決は「霊能力者と称する女性信者が、財産がなくなるまで献金するよう執拗に求め、子どもに危害が及ぶなどと告げた」と認定。約6500万円分の献金などについて違法だったと指摘した。
統一教会広報局の話 一部といえども請求が認められたことは遺憾です。判決内容を検討し、対応を決めたい。
統一教会がダメージを受けないのは、保守層にがっちりと食い込んでいるからだ。
集団は基本的に閉じた体系である。ゆえに「開かれた組織」は実在しない。なぜなら開いてしまえば、それは社会の一部となるからだ。何らかの目的に添って組織が形成される以上、集団は共同体を志向する。
そんなことがあるのだろうかと訝る人もいるかもしれない。しかし、私達はこうしたことを日常生活や職場、専門家集団において経験している。専門家はそれぞれの分野ごとに独特の言語と論理を共有しており、二、三の専門用語を話すだけで関連する事柄や背景的知識、問題の解決法まで頭に浮かんでくる。専門家集団といえば宗教集団も同じである。統一教会のような閉鎖性の強い集団に入るとなかなか抜けられなくなるのは、教団が物理的な紹介(見張りやスケジュール管理)を置くからではなく、認識の構造は言語体系までも統一教会独特のものしか使わないよう訓練してしまったために、外部の人達とコミュニケーションができなくなり、外へ出ることを信者自身がためらうようになるからだ。
これは重要な指摘だと思う。企業の社内文化みたいなものだろう。同調圧力。空気、雰囲気、阿吽(あうん)の呼吸。郷に入っては郷に従え。
専門用語が組織内方言の役割を果たす。「同じ道産子だべさ」というわけ。
【ほうれんそうの原則】──報告、連絡、相談を縮めたものである。自分の行為は全て上司に報告し、信徒どうし連絡を密に行い、事後判断の必要がある場面では全て相談する。統一教会の信徒は自己の裁量で行動することは殆どなく、組織的な判断や指令を優先する信仰実践の毎日である。これは行動のコントロールである。(統一教会のコントロール法)
企業化する教団の姿が生々しい。あるいは兵士化というべきか。「小野一等兵、現在位置を報告せよ」。活発な宗教行動は、ひょっとすると宗教性に対する自信のなさを露呈しているのかもしれない。
結局、信徒をマインドコントロールしている教団が行っていることは、「時間とカネの管理」なのだ。経済行為として見れば振り込め詐欺と変わりがない。物語の内容が異なるだけだ。
あらゆる集団が政治化し経済化することを避けられない。ここに問題の本質がある。詐欺に引っ掛かるのは、合理性を手放した人々であろう。
・江原啓之はヒンドゥー教的カルト/『スピリチュアリズム』苫米地英人
・ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之