古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

強靭なロジック/『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝、藤原肇

『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 ・強靭なロジック
 ・日本に真のジャーナリズムは存在しない

『藤原肇対談集 賢く生きる』藤原肇


 ツイッターが面白くて、書評を書く意欲が失せている今日この頃である。そして季節は夏だ。夏に本は似合わない。ジリジリと焼きつけるような太陽の下で本を読んでいるのは、ま、私くらいなものだろう。


 この本は、藤原肇の公式サイトで知った次第。

 入手が困難かと思われたがネットで直ぐに見つけた。


 100ページくらいで挫けそうになった。藤原の老人っぷりに辟易(へきえき)させらたからだ。老いが頑迷固陋(ころう)へと傾き、自分の知識にしがみつく老醜をさらしている。なかんずくインターネットに関する無知は目を覆いたくなるほど。


 それでも、この二人のロジックから学ぶことは多い。歴史の流れを鋭く捉え、政治・経済・思想にわたる議論が展開されている。しかもその読み解き方が数学的視点に支えられているから説得力が倍増する。

「理」は「筋が通っていること」で「正しさ」や「誠実さ」を表わし、古来の徳目である「義」や「誠」に通じており、利益を意味する「利」よりも格が上である。
 しかし、戦後の日本では「利が理に優先」していて、価値観が逆転してしまったために、拝金主義に毒されたカネの亡者が横行し、情けないことに亡国の淵に立たされている。(藤原肇


【『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝〈しょうけい・たかし〉、藤原肇(清流出版、2003年)以下同】


 これは西洋の理論と東洋の道理の違いを示している。西洋はどうしても神という真理に向かって理論が構築される。これに対して東洋の場合、天地自然の理(ことわり)に則(のっと)る意味合いが強く、具体的には「歩むべき道」として説かれる。藤原が言いたいのは「ロジック+仁」ということか。ロ仁ク(笑)。

 その(景気対策によって需給ギャップが埋まらない)最大の原因の一つは、地下経済が増殖していることである。今日本のGDP国内総生産)は約480兆円だが、そのうち5%ぐらいが毎年アングラ化していると見られる。だから経済政策がうまく作動しないのである。
 なぜ地下経済が増殖するのかと言えば、コンフィデンスすなわち信頼が損なわれているからである。政府と国民との間の信頼、経営者と労働者との間の信頼、先生と生徒との間の信頼、親と子との間の信頼など、さまざまな分野でのコンフィデンスの崩壊が進んでいる。政府と国民との間にコンフィデンスが成り立っていれば、経済はアングラ化しない。しかし、政治や政策に対する信頼が失われているために、経済はアングラ化し、政策はうまく作用しない。(正慶孝)


 この指摘も鋭い。信用(与信)で動いているはずの経済から信頼が失われているというのだ。脱税、資産隠し、100歳過ぎると行方不明、ってわけだよ。その原因が人間関係の崩壊にあると。


 とすると、やはり政治不信の影響は大きい。信頼は必ず大きなものから失われてゆくのだ。主義ではなく枠組みとしての国家がデタラメになれば、社会の共通価値も解体されてゆく。まして日本の場合、国家の上に位置する宗教的価値観を欠いているのだ。人々は流されるか、引きこもるしかなくなる。

 この二人は思想・哲学にも造詣が深く、縦横自在に文明論を戦わせる。

藤原●デカルトは中世のカトリックの世界に対して、サイエンスの側からの反発という形で登場しています。ところが、デカルトの前にガリレイがそれに挫折しており、デカルトバチカンが怖くて仕方がなかった。『方法序説』はフランス語で書かれているが、「われ思う、ゆにわれ在り」の部分だけは「コギト・エルゴ・スム」とラテン語で書かれています。これは、私は精神世界と結びついていますよ、という法王庁の支配体制への一種の免罪符であり、本心は自分はサイエンスの側に立つということでした。


正慶●そこがデカルトの謎ですね。1968年にフランスの学生たちが反体制運動(五月事件)に立ち上がったとき、スローガンの一つに「デカルトを殺せ」という言葉がありました。これはデカルトに始まる近代を克服しろという意味でした。


藤原●そうです。近代を乗り越えてメタの世界に行かなければ、新しい社会は構築できないということです。


 藤原がいう「メタ」とは脱構築デコンストラクション)のニュアンスが強い。私はヘーゲルからマルクスに至る文脈をよく知らないのだが、どうもポストモダンという時代認識に違和感を覚えてならない。大体、中世と較べてもタイムスケールがあまりにも短すぎると思う。数世紀以内に人類が滅ぶのであれば話は別だが。


 では何をもってメタ(超越)してゆくのか? それは神に変わる基準を示す以外にない。「神は死んだ」とニーチェは叫んだが、その後新しい子供の生まれた形跡がない。で、もちろん神になった人間もいない。


「神は死んだ」とするのであれば、それまで「神は生きていた」ことになる。でも本当はいないよ(笑)。最初っからいなかったのだ。神が自分に似せて人間を造ったのではなく、人間が自分に似せて神を作り上げたのだ。だから、神は人間の姿をしているではないか。


 それゆえ歴史を超克してゆくためには、神の精算が不可欠なのだ。あいつは人間に「罪」という借金を背負わせただけの存在だ。





【フランス パリ 五月革命 1968年】