心を開けゴマ


 すまん。「ゴマ」は余計だった。つい付けてしまったというのが真相だ。


 佐野元春は「誰かが君のドアを叩いている」と歌った。誰なのかね? よもや、ピンポンダッシュということはないだろうな。


 同じ歌の冒頭で「街角から街角に神がいる」とも歌っている。本当なのか? 嘘だ。嘘に決まっているよ。駅頭でやたらと手をかざす連中を見かけるがアイツらは神ではない。また、街角にいるのはポケットティッシュを配っているアルバイトであって、彼等は「神」ではなく「紙」だ。


 我が家のドアを叩き、電話のベルを鳴らすのは、神ではなく営業マンと決まっている。私の財布の中身を狙う連中だ。私は快く受け入れ、話を聞いた上で、不躾な質問を繰り返した挙げ句に罵声を浴びせる。仕方がない。これが趣味なんだよ。


 で、最近になって気がつかざるを得なくなったんだが、心というものはこっちが開いた分しか、相手も開かないんだよね。私は幼い頃から人の好き嫌いが激しく、嫌いな人物を相手にする時間はムダだと考えている。いや、本当のことを言おう。マイナス価値があるとまで思っているのだ。


 そんなわけで、私が「クソだな」と厳正かつ公平に判断した場合、話し掛けられた分だけに反応することとなる。ここまで読んで、私のことをただの気難しい中年オヤジだと錯覚する人もいるだろう。その錯覚は正しい。


 私が言いたいことはこうだ。「人は相手から学ぼうとしない限り学べない」――何だか陳腐な結論となってしまったが仕方がない。例えば私がドアを全開にしたとしよう。でも、相手のドアが少ししか開いていなければ、視界に映るのは大半がドアとなる。まして、部屋の中が薄暗いと何があるのかわからない。私はこの状況で助言することを強いられる。


 そしてもっと大事なことがある。それは、互いがドア(=胸襟)を開いた上で、「歩み寄る」ことだ。なぜなら、開いたドアまで進まないと、相手の部屋の全貌を確認することはできないからだ。更に、双方が相手の部屋に入ればオッケーだ。だが油断してはならない。押し入れの中に何が入っているかはわからないのだから。


 自分よりも経験豊富な人、技術の優れた人、知識が深い人に対しては、進んで心のドアを開くことを私は実行している。