日本の思想界ってえのあ、所詮こんなレベルなのかね? 批判に耳を傾ける度量はこれっぽっちも持ち合わせていないようだ。神経症的とも思える対応が、人間としての本性を浮かび上がらせている。狭い世界でおだてられているから、こんなことになるのだろう。幸か不幸か私は吉本も柄谷も読んだことがない。ま、今後もないだろう。しっかし、ケツの穴の小せえ野郎だね。
吉本隆明は、1980年代〜90年代、自分を批判した浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と激烈に応答した(『「情況への発言」全集成 3(洋泉社、2008年)』p200p278p338)柄谷行人に関しては、1989年時点で、「せっかくブント体験をもってるのに」「最低のブント崩れ」とも評している(『「情況への発言」全集成 3(洋泉社、2008年)』p226参照)。
東浩紀、鎌田哲哉、大杉重男、千葉一幹らが私を批判しているから、それに対して応答したらどうかといわれた。しかし、こんな連中の低レベルな批判にまともに応答する理由はない。
この連中は、批評空間や群像新人賞から出てきた。世の中では、私が評価したと思っているかもしれない。もちろん、相対的に評価したのは事実である。しかし、その後の仕事については、また別である。私の評価はそのつど変わる。ただし、それをいちいち言うべきではないと思い、長い目で見ようとしてきた。しかし、彼らが錯覚し思い上がって騒々しく噛みついてくるとなったら、一言いっておかねばならない。
こういう連中は、全面的に私の言説の中で育ってきて、一人前になるために、そこから出ようとして、まず私にからみ攻撃する。しかし、それでは私に対する従属をますます認めることにしかならない。(何にしろ私はこんなストーカーどもにつきまとわれたくない。)そもそも、このような心理はあまりに単純であって、それを自覚できないということだけからみても、この連中には見込みがない。彼らには『トランスクリティーク』を論評することなどできない。端的にいって、理論的能力が欠けている。それでも、勉強しようとする知的な関心や倫理的な衝迫があればいいが、それもない。たんに、何か派手に有名になりたいという根性があるだけだ。