「ドメスティック」は「家庭の」という意味であるが、「国内の」という意味もある。ということは、検察の恣意的な捜査などはドメスティックバイオレンスと呼んでもいいことになる。生活保護の申請を拒否する地方自治体もまた同様だ。
ドメスティックバイオレンスの本質はインサイドバイオレンス(内部暴力)にあると私は考える。「見えない暴力」「隠蔽(いんぺい)された暴力」と言ってもよい。
戦争や格闘技は「開かれた暴力」である。暴力団や右翼は「公開された暴力」だ。暴力は示威的な意味合いを帯びる。
これに対して一般的に言われるところのDVは、家庭内で主に男性が女性に振るう暴力を指す。「家庭内」で行われているため外からは見えない。幼児虐待も同じだ。
1970年代後半に校内暴力が起こり、1980年代になってからいじめを苦にした自殺が現れ始めた。前者は「見える暴力」であるが、後者は「見えない暴力」であろう。ということは、いじめ問題こそインサイドバイオレンスの走りと考えられる。
いじめはそれまでも存在したが、明らかに1980年代を経てバブル経済が弾けてから尖鋭化(せんえいか)している。もとより学校だけではなく、社会の至るところでいじめは繰り広げられた。
EU(欧州連合)発足が1993年のことである。世界は緩やかな統合を目指しつつ、領土拡張路線は姿を消して、帝国主義は既に滅んだように見えた。
ところがインサイドバイオレンスは激化した。イスラエル問題やルワンダ大虐殺がそれを象徴している。
バブルが弾けた頃、「戦国時代」だとか「サバイバル」といった言葉がもてはやされた。その一方で若者は「息苦しさ」や「生きにくさ」を覚えていた。経済が不安定になると様々なプレッシャーにさらされる。同調圧力の高い日本社会においてプレッシャーは暴力と化す。その暴力性が連鎖となって弱い者へ向けられるのだ。
暴力のベクトルは内側に向かう。共同体の枠組みは解体し、分断された個人が泡沫(うたかた)のようにウェブの海を漂っている。そこでは現実のつながりよりも、むしろ情報的なつながりが求められている。
これを単純に「人間関係が稀薄になる問題」として捉えるのは浅はかだ。人々が求める人間関係の「新しい形」と受け止めるべきだろう。
通信技術の発達は「いながらのコミュニケーション」を可能にした。人類は引きこもる。家族も崩壊して人々は自分だけのカプセルに安住する。暴力を避けるために。
【付記】英語の接頭辞「in」は反意語を表す場合がある。インフォーマルは非公式で、インモラル(英語表記は「im」)は不道徳になる。本来は「中へ」という意味にもかかわらず、頭につくことで反意語となるのが意味深長であると思う。