古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々』玄侑宗久

 ラジオから流れる朗読に耳を奪われた――

 汗っかきほど蚊が寄ってくる。横一列に並んで坐っていると、色白で汗っかきの先輩のほうに蚊が寄っていくのが見えることがある。しかしむろん、全ての蚊がそちらに行くわけではない。「私の血は、きっとまずいよ」なんて念じてみても、必ず私に向かってくる奴もいる。
 坐禅中だからもちろん動けない。頭や顔や首に来られたら全く無力なもので、どんなに痒くともなすすべはない。ただひたすら彼女たちの排卵に協力するしかないのである。
 しかし刺される場所によっては、こちらにも反撃のチャンスが訪れることがある。つまり手首より上の、肘くらいまでの場所を刺してきたら、こちらも座視してばかりはいられない。着物と麻衣の上から刺すわけだが、目の粗い麻衣の布地に彼女たちは嘴(くちばし)というか針を挿入する。その針が皮膚に届いた瞬間を狙い、私は人に気づかれないほど微妙に、腕を動かすのである。可哀想に彼女の口の針は、あえなく折れてしまう。
 私って、残酷だろうか。しかし大部分の蚊は無事に血を吸い、思う存分腹を膨らませ、時には飛べないほどに太って私を後にするのである。種の保存の観点からも、多少の犠牲はやむをえないのではないだろうか。
 ともあれそういうわけで、夏の坐禅はあまりにも忙しい。とても慈悲どころではなくなるのである。


 取るに足らない日常のひとこまが、飄々とした文章で見事にスケッチされていた。おかしみと共に、はかなさも感じられた。私は早速、本書を求めた。


 著者は禅寺の僧侶である。修行の風景が、感情というスパイスを効かせた文章で切り取られ、気がつくとクスリとしながら読んでいる。どのページを開いても、居丈高に講釈を垂れるような姿勢はなく、親近感が湧いてくる。


 だが、読み進む内に、何かシコリのようなものを覚えた。警策が振るわれるシーンを何度か読んで、やっとそれがわかった。


 修行という名目で、時には血だらけになるまで、警策で殴られることもあるそうだ。これは、「日本人の悪しき隷属性」そのものであろう。位階に支配された狭い世界で、戦々恐々としている姿は、醜悪な日本人そのものだ。


 この本は大変面白いのだが、読み終えて禅寺に入門したいと思う人は、まずいないはずだ。寺の中でしか通用しない論理が、若い僧侶を虐げている――そんな様相が浮き彫りになってくる。


 神や仏が説いた教えは、本来、社会に向かって放たれたメッセージであったはずだ。つまらぬ形式の残骸を修行だと錯覚しているから、「葬式仏教」と人々から嗤(わら)われるに至ったのだろう。


 私の率直な考えでは、禅寺に入るよりも自衛隊に入った方が、はるかに生産的だ。