古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

結婚しようと思っている彼女にAVの過去が……

 彼女のご両親に挨拶をして、結婚することの了承が得られ、有頂天になっていたら……帰りの新幹線の中で彼女から、AVに昔出ていたっていう告白をされてしまった……。まじでこれからどうすべきかがわからない。最悪だ。隠し事はしたくないって言われても、そんな話聞きたくなかった。彼女、新幹線の中でずっと泣いてたよ……。


痛い信者


 この問題について考えてみよう。性というタブーを考える上で貴重な題材となっており教科書に採用して欲しいほどだ。賛否いずれも力がこもっている。何はともあれ通読してもらいたい。


 アダルトビデオに出演することの何が問題なのか? 金のためなら見知らぬ男とセックスができるような女であり、そうした事実を多くの人々に知られることをよしとした女である。ま、こんなところだろう。


「貧しさゆえ」という理由は考えにくい。とすれば、何かを買うために自分の身体を売ることができる女であることを意味する。同じ金目的でも「実は過去に銀行強盗をしていて前科一犯なんだよね」なら許せるかもしれない。この場合「金のためなら何でもするのか?」という疑問は生じにくい。


 では女優のラブシーンはどうだろう? 紛れもない性的営みである。売れっ子であっても濡れ場を演じる女優は多い。「でも、あれは中に入れてないだろ?」。しかし裸になって金を稼いでいるのは同じだぞ。「そう言われてみると確かに……」。で、男優の場合は問題視されることがない。飽くまでも女の問題。


 挿入が問題だとすれば、処女と童貞以外はまともな男女として扱われなくなる。我々男性は、女性の口を様々なものが通過することは何とも思わないが、下半身については過剰なまでに反応する。でも、生理用品や医師の指などであれば気にしないはずだ。


 結局、性は文化であり幻想なのだ。キリスト教イスラム教は現代にあっても尚、性を抑圧している。封印し隠匿されタブー化された性は否応なくステレオタイプとなる。オスとメスの役割。性はコミュニケーションという本来の機能を失い、単なる欲望の吐け口と化している。


 書き込みを読むと「男の眼差し」が浮かび上がってくる。結局多くの男どもは女性を「商品」として見つめているのだ。まるで「傷物」になったと言わんばかりだ。最初から空いている穴であるにもかかわらず。穴に何かが入ったところで傷にはなるまい(笑)。


 岸田秀は男性の性行為が「手の代わりに膣を使ったマスターベーションに過ぎなくなった」(『続 ものぐさ精神分析』)と指摘している。つまり欲望を満たしたり、自我の欠如を補うために女性を利用しているわけだ。


 アジアでは今も尚、自分の子供に売春をさせる親がいる。プーラン・デヴィは両親の目の前でたくさんの男達に強姦された。『囚われの少女ジェーン』は17年間にわたって義父から虐待された実体験を綴ったもの。


 性的にふしだらな関係が多いほど病気になる確率は高まるわけで、進化的なリスクは避けられない。だが我々男性が性に吹き込んでいる物語性こそが最大の問題である。「俺だけの穴」に固執するから、妙な潔癖さを求めてしまうのだろう。差別感情は「穢(けが)れ意識」から生まれる。これは世界共通だ。

 二人は真実愛しているのだが、相互を愛するのではない、と説得力ある論述をしている。二人が愛するのは、愛の対象の人であるよりは愛の自覚――愛のなかにいるという状態――そのものである。愛される人は、愛する人自身が昂揚してゆくための存在として機能するかぎりにおいてのみ貴重な価値をもつのである。


【『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル/浅野敏夫訳(法政大学出版局、1994年)】