古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

日本語初のDVDブック/『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』J・クリシュナムルティ

沢村貞子に似ているな」──私が初めてクリシュナムルティの顔を見た時の印象だ。若かりし頃の写真は彫像のように端正でエネルギッシュだ。思わず、「ヨッ、色男!」と声を掛けたくなるほど。


 英語のDVDを大野純一の提案でDVDブックにしたようだ。これは正解だ。クリシュナムルティのトリッキーな言葉を聴いただけでは理解できない。ま、実際は何度読んでも理解し難いのだが。


 彼は我々の価値観を根底から揺さぶる。そして条件づけされた我々の思考には揺り戻しの力が働く。元の木阿弥(もくあみ)だ。


 私はテキストを先に読んだ。その後、DVDを観る決心が中々つかなかった。ファーストコンタクトに臨むに際し、体調をととのえ、心を清める必要を感じた。ただ、何となく。


 クリシュナムルティの声は甲高かった。声がいいとは言い難い。それでも彼独自の響きを発しながら、情熱と真剣が横溢(おういつ)している。クリシュナムルティが事前に講話の内容を用意することはない。彼は聴衆を一望しておもむろに語り掛けることを常としていた。どこの国であろうと、どんな規模の会場であろうともだ。


 彼自身が語っていることであるが、講話の最中は一種のプロセス状態にあるという。

 一見すると、何かにに取り憑(つ)かれたような、はたまた陶酔しきったような印象を受ける。私は「誰かに似ているな」と考え、思い当たった時に我ながら驚いてしまった。ヒトラーであった。しかしながらヒトラーが野望を振るわせていたのに対し、クリシュナムルティは慈愛を響かせていた。


 確かにプロセス状態を見て取ることができる。彼はしばしば瞑目(めいもく)する。そして開かれた眼(まなこ)は外に向かっていながら、明らかに内側を見つめている。つまり彼は自分自身とも対話をしていたのだ。


 そして、わずかではあるが椅子に腰掛けて沈黙の中から人々を見つめるシーンがある。私が観たかったのはこれだ。


一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン


 この小柄で華奢(きゃしゃ)な身体の老人に、なぜこれほどのエネルギーが満ちているのであろうか? 組織をつくることもなしに、たった一人で半世紀以上にわたって世界に反逆できたのはなぜか? そんな疑問に駆られてならない。


 クリシュナムルティを知るためには、彼の人となりはどうでもよく、ただひたすら彼の言葉から彼の内面世界を探るしかない。彼は常に言う。「言葉は『そのもの』ではない」と。確かにそうだ。悟りは言葉に変換できない。荘厳な夕焼けを電話や手紙で伝えることも難しい。「正確な言葉」「深い感動」は伝えることができても、風景そのものを伝えることは決してできないのだ。


 クリシュナムルティは厳しい人だった。連続講話を終えて「変化した人は一人もいない」と言い切り、今わの際(きわ)にあって「私の教えを理解した人は一人もいなかった」と語った。これを額面通りに受け止めるかどうかは個々人が判断することであろう。私は彼の単独性を示した言葉であったと理解している。


ただひとりあること〜単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 少なからず理解し、変化した人は存在した──

 アチュイト・パトワルダーン:旅に疲れ果てたあるジャイナ教徒がやって来た時のことを憶えています。それは朝の11時頃、クリシュナジがちょうど入浴しようとした時でした。彼はクリシュナジがここにいることを聞き知ったので、何週間もかけて徒歩でやって来たと告げ、そしてとても差し迫った問題を抱えているので、ぜひ彼に会わせてほしいと言いました。
 そして彼は対座しました。ジャイナ教徒は言いました。「私は、14年余り、思考〔想念〕の超克という問題を探究し続けてきましたが、もはや前進することができなくなりました。」それからこう続けました。「私は、苦行や、その他あらゆるものを試みましたが、万策が尽きました。」彼は、もしも46歳の今に至るまでのこの14年間余りにわたってしてきたことが無駄に終わり、何の成果も得られないなら、生き続けても仕方がないので死のうと決心していたのです。彼は、答えを見出さねばならないという切迫感に駆られているようでした。クリシュナジは微笑み、そして言いました。「あなたは答えを見出そうとしているのではありませんか?」「あなたは解決の道を見つけ出そうとしているのですね」彼は言いました。「私だったらむしろこの過程を変え、自分が自分自身に対して何をしようとしているのかをただ見つめてみるでしょう。」「思考がそれ自身に対して何をしようとしているか、見てごらんなさい」と彼は言いました。「思考が自分の働きを停止させるために自らを説得し、自らに圧力をかけているのは、そうすることによって何かを手に入れたいからです。が、これは思考にはできないことなのです。」「ですからあなたは、あなたが14年間試みてきたことは、思考が試みてきたことであり、そしてどうあがいても思考にはけっしてそうすることができないという単純な事実を把握しなければなりません。あなたが思考にしてほしいと願っていることは、思考の能力範囲にはないという究極の事実をただ見てみるのです。私が言っていることがおわかりですか?」僧は深く感じ入り、そして言いました。「ええ、わかります。」しかしクリシュナジは言いました。「あなたは思考にそれをするように求めてきたのですが、そうしてはだめなのです。思考がそれ自身に対していることをただ見つめてみるのです。もしそうしたら、その後待つのです。」
 すると突然、僧の表情に変化が生じました。彼は目を閉じ、とても静かになりました。そして4分ほど後に彼は目を開けましたが、涙があふれていました。彼はクリシュナジの足元に触れ、そして言いました。「私は長い間これを得ることを待ち望んできましたが、そうできずにいたのです。ありがとうございました。それでは失礼します。」クリシュナジは言いました。「いや、そんなに急いではだめです。5分間お坐りなさい。」僧は坐りました。


 彼は静かに坐っていましたが、突然出し抜けに言いました。「もう一つ質問があります。」クリシュナジは言いました。「もちろん、私はそれを待っていたのです。」僧は言いました。「確かにおっしゃるとおりでした。それについて私が何もしないのに、思考はすっかり静まりました。しかし、どうしたらその状態を持続できるのでしょう? どうしたらそれを再び得ることができるのでしょう?」クリシュナジは言いました。「それこそはまさにあなたがお尋ねになるであろうと思っていた質問です。」彼は言いました。「しかし、その質問をしたのは誰なのでしょう? 静かな精神がこの質問をしているのでしょうか、それとも、静まることができず、それを気にしている精神がその質問をしているのでしょうか? だとすれば、またもやそれは古い精神です。あなたは古い精神に逆戻りし、その古い精神が、たった今手に入れたものを持続させたいので、その質問をしているのです。それに固執し、それを持続させたがっているのです。こうしたすべては思考の働きなのです。あなたはいったんはその部屋〔古い精神〕から出たのですが、今またその中に舞い戻り、そこから答えを求めているのです。つまり、思考によって答えを得ようとしているのです。自分が何をしているかおわかりですか? 思考がそれ自身に対して何をしているかおわかりですか?」すると再び僧は沈黙しました。今度は、しばらくの間沈黙した後、彼は平和に満ちた目を開けてクリシュナジの足に触れ、言いました。「私はあなたに再びお目にかかることはないでしょう。」


【『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』J・クリシュナムルティ/柳川晃緒〈やながわ・あきお〉訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】


 私はこのジャイナ教徒と同い年である。ま、単なる偶然だろう。しかし、40代という中年期は人生が堕落するか、もう一段高められるかが問われる時期でもある。私自身、親や恩人、そして友人や後輩が次々と亡くなり、中年期の壮絶さを実感している。


 若い頃は迷うことが少なかった。勢いもあった。出たとこ勝負で何とか凌(しの)げた。しかし、40代となっていつしか迷うことが多くなった。それは、この暴力と不正にまみれた世界を、意識するとしないとにかかわらず自分が支えてきたことに気づくことが多くなったためだ。


 世界の現状を知れば知るほど苦悩が押し寄せてくる。苦悶(くもん)に喘ぐ人々の声を聞けば聞くほど、どうしようもない怒りに駆られる。こうした感情が恐るべきストレスとなって心の深いところに沈澱しているのだ。創造の決意と破壊の衝動が拮抗(きっこう)する。映像や活字は否応(いやおう)なく我々を傍観者にする。「フン、どうせ……」と思った瞬間から心は堕落の一途を辿る。あるいは激情に駆られて世界を構成する暴力に取り込まれる。


 クリシュナムルティは「止まれ」と呼び掛ける。そして「思考から離れよ」と。更に「あの花を見よ」と。


 彼が静謐(せいひつ)なる世界から自得した言葉は、正真正銘の本物の響きに覆われている。彼の言葉に共鳴する私自身の心の震えを大切にしたい。


「危機はどこにあるのか」J・クリシュナムルティ