古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

思想と理論/『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三

 リハビリテーションの思想と、イタリアのカルロ・ペルフェッティが提唱する認知運動療法の啓蒙書である。宮本省三の文章は機関銃のように怒りを放っている。畳み込む理論が時に破綻することもある。実に強引極まりない。私は本書を読んで、宮本省三の評価にクエスチョンをつけざるを得なかった。「心意気は買う。しかし表現が拙い」――率直にそう感じた。


 しかしそれでも尚、端倪(たんげい)すべからざる文章が散りばめられている――

 もっと明確に語ろう。リハビリテーション医療はリハビリテーション思想に基く社会復帰の手段であって、運動療法理論に基く治療ではない。ある治療が科学的であるためには、思想ではなく理論が不可欠である。なぜなら、思想は方法論を規定しないが、理論は方法論を規定するからである。


【『リハビリテーションルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三(春秋社、2006年)】


 これには心底驚かされた。ここ数年にわたって私が何となく考えていたことが、明快な言葉となっていた。はたと膝を打った。その時の手形がまだ膝に残っている(ウソ)。


 宮本省三はきっと、リハビリ効果の個別性・特殊性に配慮したのだろう。否、段階の異なる身体障害者をリハビリ理論にはめ込むことを斥(しりぞ)けたのだ。ある人には効果があっても、別の人には全く効果がないこともあり得る話だ。


 このテキストは期せずして「科学と宗教」のあり方をも示唆している。思想と理論はイコールではない。しかし、理論を無視した思想は万人が受け容れることはできないし、思想なき理論にも人は嫌悪感を覚える。「情と理」とも言えるし、「信と理」とも言い換えることができよう。

「神の名」のもとに一切が正当化されてしまう世界観は危険だ。理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ――これが正しい信仰のあり方であろう。理と信とが乖離するところに邪教邪教たる所以(ゆえん)がある。


モルモン教の創始者ジョセフ・スミスの素顔/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 大乗仏教ブッダの言葉を理論化しつつ、哲学性を止揚するに至った。小乗教はシステマティックな教条を500もの戒律に細分化して、民衆から見離された。つまり問題は、方法化にあるわけではなく、方法化の基盤となる思想にあるのだ。とすると、思想と理論とは別々に論じることができない。


 私が宮本省三という人物を信用するには、『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』(講談社現代新書、2008年)を読む必要があった。未読の方はこちらから読むことをお薦めしておこう。


 本書には宮本の焦燥感のようなものが見受けられる。そこから、日本のリハビリの現状を読み解くことも可能だ。