古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

血に寄り掛かる親/『寝たきり婆あ猛語録』門野晴子

 門野晴子は幼い頃、母親から虐待されていた。それでも、介護が必要となった母を自分が引き取ることにした。理由は自分でもわからないという。


 とにかく婆さんの偏屈ぶりが凄い。これほどひねくれていれば、もはや笑うしかない領域に達している。著者自身が娘との会話で笑いのネタにしているくらいだ。落語のような趣があって、ピシッと決まっている文句が多い。


 門野晴子といえば、介護に関して一家言を持つ人物で知られている。現実を知ればこそ、安易な理想に飛びついたり、空理空論をもてあそぶところが全くない。

 本当の親子でも関係づくりを努力しなければすぐ忘れて笑えるか、と腹の中で毒づく。
「血」に安住して子どもを支配し、親を看(み)て当然だと頭から思い暮らした家父長(かふちょう)教の親たち。その君臨性は息子の嫁を私物化し、タダ働きの「手間」をもらったと披露(ひろう)する地方が戦前ならともかく現在もある。
 しがみつかれる嫁や娘は戦後民主主義平和憲法で育った世代である。人としての情ややさしさで老親をすておけないとなっても、「血」によりかかられて当然視される娘は抵抗がある。ましてや血に関係のない嫁においておや(ママ)。


【『寝たきり婆あ猛語録』門野晴子(講談社、1996年)以下同】


(※文末は「をや」が正しい。もう少し言えば「いわんや――においてをや」と使うのが正解)


“血に寄り掛かる親”への批判は猛々しいほどで、通奏低音をなしている。だが、これほど糾弾するところを見ると、門野自身が「血の重み」を感じているに違いない。そのプレッシャーが大きいからこそ、自分を奮い立たせるための理論武装が必要になるのだ。


 しかしながら、「親子であっても関係づくりの努力が必要」という指摘は鋭い。双方が受け身であれば、病状や生活環境が変わるたびに関係性が振り回される羽目となる。積極的に関わる姿勢があればお互いを必要とする関係性となる。ただし、これはコミュニケーションが可能な状態であればの話だ。重度の認知症ともなれば、“自分の関わり方”のみが問われる。これは相当苛酷な世界だ。


 門野晴子は口先だけの人物に非ず。自分の親を反面教師にして、息子の嫁には次のように接している――

 息子のパートナーを私は絶対に嫁視しない。嫁という言葉も内実も私で断(た)ち斬(き)らねばならないと思う。息子の仲立ちで出会った大切な女友だちであると同時に、ありのままのすべて、存在そのものが愛(いと)しいわが子が3人になっただけ。つまり、彼女に教え覚えてもらうようなこちらの「文化」はなに一つ持たない。


 ここでいう「文化」とは「家のしきたり」であろう。古来、「郷に入っては郷に従え」と伝えられる。この俚諺(りげん)に“郷のあり方”を問う視点はない。「長いものには巻かれろ」と同じ姿勢だ。農耕民族は、善悪よりも損得の価値を重んじたのだろう。門野はこれに異を唱え、“平等”であることを優先する。「長幼序あり」とは言えども、長が幼から学ぼうとする姿勢を持つべきだ。


 我々の価値観は、さしたる根拠もないままに、社会に出回っているというだけの理由で採用しているものが多い。門野の指摘は、そういうことにまで気づかせてくれる。