洋の東西を問わず、約1000人になんなんとする人々の死に様が描かれている。死を照射しているが、人物図鑑としても立派に通用する。一人に割いているのは高々半ページほどである。山田風太郎の歴史と人物に対する造詣の深さが圧巻。
ま、とにかく読んでごらんよ。人が生まれてくる時は皆一様だが、死は千差万別の趣がある。亡くなった年代順で書かれていて、自分の年齢と比較しやすい。非業の死あり、刑死あり、割腹自殺あり、事故死あり、病死あり……。一見すると安楽に見える死も、本当のところはわからない。いずれにせよ、死は平等に訪れる。
同じ夜に何千人死のうと、人はただひとりで死んでゆく。
山田風太郎――
もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、
大半の人間の生きようは一変するだろう。
従って社会の様相も一変するだろう。
そして歴史そのものが一変するだろう。
山田風太郎――
最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う。
山田風太郎――
死ねば終わり、である。来世を信じようが否定しようが、それは変わらない。化けて出てくるのもいるかも知れないが、幽霊みたいな連中が社会の現実を変えることはない。怨念という力が存在するのであれば、ドイツはユダヤ人の怨念によって崩壊しているはずだし、アメリカは先住民の怨念に倒されてしかるべきだ。
100年後には今生きている人の殆どは死んでいる。かような事実を思えば厳粛な気持ちにならざるを得ない。争そうために生きている人生が馬鹿らしくなってくる。財産・地位・名誉……。我々が重んじる価値は何一つ墓場に持ってゆけないものばかりだ。
老いは死の影である。人は老いを忌避しているのではなく、老いの直ぐ向こう側に見える死を恐れるのだ。死はなだらかな平地に存在しない。いつだって唐突に現れる断崖(だんがい)なのだ。上り坂で出てくるか、下り坂で現れるかもわからない。自分の意思と関係なく、自分の人生がそこで裁断されてしまうのだ。死は、悪魔が勝手に下ろす幕だ。
本書を読んでいる最中に私の父が亡くなった。私の胸中には大いなる墓標がそびえ立った。だがそれは、鎮魂を目的としたものではなく、私の人生を力強く支えてくれる柱となるに違いない。