古本屋の覚え書き

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情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀

 3ヶ月ほど前に読了していたのだが書き忘れていた。これは好著。安部司著『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』を鵜呑みにしている人(筆頭は宮台真司)は必読。


 メディアの仕事は事実を報道することが半分で、残りの半分はデマを捏造することだ。特に映像の場合、活字のように読み返すことができないため、やりたい放題の現状となっている。一言、アナウンサーや司会者が謝罪すれば許されると思い込んでいる節が窺える。


 本書は食品情報にまつわるデマを一刀両断にしている。と言っても、決して下品になっておらず、真摯かつ求道的な姿勢に好感が持てる。それにしても酷い。酷過ぎる。多分、法律に問題があるのだろう。ということは、当然そこに利権が絡んでいるって話になりますわな。

 科学はそれほど単純ではありません。さまざまな条件や量の大小などによって良くも悪くもなります。白か黒かではなく、グレーゾーンが大部分なのです。
 マスメディアは、このグレーゾーンをうまく伝えることができません。多種多様な情報の中から自分たちにとって都合の良いもの、白か黒か簡単に決めつけられるようなものだけを選び出し、報道します。メディアによる情報の取捨選択のこうしたゆがみは、米国では「メディア・バイアス」と呼ばれています。


【『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀〈まつなが・わき〉(光文社新書、2007年)】


 我々は、既に取捨選択された挙げ句、歪んだ情報を受け取っているのだ。弱ったね。だって、確認しようがないもんね。大体ね、情報を受け取っている時って、人間は無意識になっていることが殆どなんだよね。これ、最近になって気づいたことだよ。意識するのって、明らかな間違いを見つけた時なんだよ。多分、活字の方がわかりやすいと思う。「意識される」のは、誤字脱字を見つけた瞬間や、内容に誤りがあった時である。私ほどの批判精神旺盛な者であっても、じっと読んでいる最中は流れる情報を受け入れているだけになっているのだ。洗脳、とまでは言わないが、明らかに同調している。


 以下も同様の指摘だ――

 つまり、認知的な限界や推論能力の限界を論じる以前に、そもそも私たちが推論の基礎とするデータそのものに、歪みが内在しているのである。私たちが正しい判断や妥当な信念を手に入れるためには、データのこうした歪みに気づいて、それに惑わされないことが必要なのである。


【『人間 この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ新曜社、1993年)】


 つまり、我々が受け取る情報というのは、発信者というフィルターを通した二次情報に過ぎないのだ。これを吟味するとなれば、相当の知識が必要となるだろう。小さな嘘を見抜くことは難しいし、大きな嘘には騙されやすい。


 嘘やデマには明白な意図があり、そこには利益が絡んでいる。ある時は自分の優位を誇大に表現し、ある場合には敵の足を引っ張る目的でスキャンダルを流す。一度広まってしまえば世間の印象は確定する。たとえ事実と反することであったとしてもだ。


 釈尊が最初に説いたとされる八正道では、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの徳が示されている。この中の「正語」とは嘘をつかないことである。後に不妄語という戒律になっている。するってえと、2000年以上前から人間は嘘をつき続けている計算となる。


 嘘は信頼を破壊する。であるからして、嘘は人間を分断する。そして、嘘が嘘を呼び、人々の争いが始まる。メディア・バイアスを自分というバイアスが増幅させる。先入観、思い込み、錯覚が世の中を混乱させる基(もとい)であろう。


 嘘を見抜き、嘘を憎み、嘘と闘え。騙された分だけ、嘘はのさばってしまう。