古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

理工系人間は正確さにこだわり、人文系人間は意味を尊重する/『おテレビ様と日本人』林秀彦

 林秀彦は、人気テレビドラマ『鳩子の海』や『七人の刑事』の脚本を書いた人物。後に、バラエティショーの司会やFMのディスクジョッキーも務めた。その“テレビ側の人物”が、怒りを込めて完膚なきまでにテレビの毒性を糾弾している。


 この本は賛否両論が極端に分かれることだろう。時に著者の感情が激しく振れ、極論に走っているためだ。やたらと「白痴化」という言葉が出てくる。林は激怒する。日本を滅ぼしつつあるテレビに対して。林は歯軋(はぎし)りする。自分の人生を狂わせたテレビに対して。そして林は涙する。テレビの圧倒的な力の前であまりにも無力な自分に対して。著者は憤怒(ふんぬ)の形相で、さめざめと涙を流し続けているのだ。


 著者が自殺未遂に至る過程や、テレビ界を去って日本を脱出した後の人生を知り、私は「この人物は信用できる」と判断した。


 林秀彦は意図的に話を単純化する。既に白痴化しつつある衆生(しゅじょう)に向かって二者択一の選択を強いる目的で――

 たぶん神は、最初から人間を、理工系に作ったのだろう。だが神自身は、あくまで文科系である。と同時に、実に矛盾することだが、その神を祀(まつ)るあらゆる種類の教会的存在の建立者と運営者は、理工系である。そこに、非常に大きな人類の問題、葛藤、悲劇が生まれている。神自身はテレビを見ない。伝道者はテレビが大好きだ。文科系の神を宣伝するために、進んで理工系の手段を講じる。
 ジャパングリッシュで誤用されているのは、ヒューマニズムの使い方だ。人道主義とか博愛といった意味でこの英語を使うが、間違っている。その意味ならばヒューマニタリアニズム(humanitarianism)を使わなければならない。人間尊重を本義とするヒューマニズムキケロに始まり、ヨーロッパの伝統的な思想であり、意味の変遷はあったが根本は変わっていない。すなわち、その時代時代で、人間性を損なうものすべてに対して抵抗する思想である。現代で言えば過度な科学の進歩、つまりおテレビ様、コンピューター、核兵器、その他もろもろ、に対する挑戦的姿勢と、それからの守備思想だ。
 そこで簡単に言い切れないことを、簡単に言い切る。
 ヒューマニズム信奉者は人文系の人間性であり、敵対者が理工系の人間である。職業的な意味でないことは前に断った。思考癖とでも言えるだろうか。性格、性癖と取ってもいい。意識・無意識は別にして、理工系の人間は非人間思考であり、人間性を失うことが進歩だと錯覚している。
 その顕著な現れのひとつは、間違いを嫌う性格だ。無謬をもって人間の最善とする「癖・へき」を持っている。彼ら・彼女らは、分析力と思考力の区別をつけていない。
 たとえばひとつの情報の正誤は分析できるが、そのいずれの場合にも含まれる「意味」は考えられない(考えたと錯覚しているが、それは分析である)。人文系人間、真の意味のヒューマニストには、正確は二義的な問題である。いずれであろうと、彼らが集中する対象は、それらが持つ「意味」である。正は正なりに、誤は誤なりに。
 理工系人間はヒューマニタリアンになりえても、決してヒューマニストにはなれない。なぜならば、理工系人間は高貴であってはなりえず、また、高貴になりえない。無論この「高貴さ」は人間の定めた身分的なものではない。神の定めた人間性の一部である。ヒューマニズムを支える根本こそ、人間の高貴さなのだ。
 高貴さは正誤と無縁であり、無謬も問題の範疇(はんちゅう)から外れる。
 正しくないこと、間違ったことをあえてすることによって高貴さが生まれる場合もある。この道筋はヒューマニタリアンの持ちえないものだ。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 実に強引な文章である。さしずめ、無理な体勢からの上手投げといったところか。しかしながら、論理の軸足は辛うじて土俵内に残っていて、上手に乗せたメッセージは力強い。


 もう一度読んでみよう――林は「知識」と「知恵」の違いを主張しているのだ。知識には重量がある。増え続ける知識の重さに耐えかねる時、人は知識に額(ぬか)づき奴隷と化す。知識は“使うもの”ではなくして、思考を束縛する鎖となる。脳味噌は単なる記憶媒体の役目を担う。こうして百科事典に手足が付いたような人間が出来上がる。一方、知恵には浮力・揚力がある。本気でものを考えると行動が変化する。そして、新たな行動が新たな思索につながる。知恵は生きざまに結晶する。


 林が言うところの「理工系人間」は、知識や理論に自分の人生をはめ込もうとする。だから、自分に対する批判や落ち度を気にして正確さを競う。そして「人文系人間」は無謬性よりも意味の有無を問う。


 正確性が求められるのは機械である。あるいは時計だ。無論、正確な知識は必要であろうが、そのために人間性を犠牲にするようなことがあれば本末転倒だ。


 理論と実践は異なる。プロ野球監督の采配にケチをつける野球ファンは山ほどいるが、彼等が監督になることはあり得ない。イチローのバッティングセンスを解説する人物が、イチローのように打てるわけでもない。


 湖の上に足を一歩踏み出す。その足が沈む前にもう片方の足を前に出す――理屈であれば湖の上も歩けることになる。


 現代人に欠けているのは、合理を踏まえながら合理を跳躍する脚力なのだ。そして、それこそが“智慧”と呼ばれるものに違いない。