情報、知識、思想、哲学、宗教/『おテレビ様と日本人』林秀彦


 一見すると、林秀彦の真剣さは強迫神経症をかもし出し、真面目さは被害妄想に導いているように感じられる。それはきっと半分当たっている。もう半分は「行き過ぎた成功からの反動による行き過ぎた自省」であろう。メディアの寵児(ちょうじ)は誰よりもメディアの毒を飲んだ者でもあった。

 特に本が人間の最大で最強の武器となったのは、哲学が文字によって書かれたときだった。人間はこのとき、文字通り「百獣の王」の座を得たのだ。その座こそ「考える努力」が与えた最大の褒賞だった。だが私は太鼓判を押そう。日本の全国会議員の書庫を探しても、哲学書は10冊と発見できないだろう。
 その頃、本が“情報”だなどと考えた人間は一人もいなかった。人間にはまだ「永遠なるもの」を求める力と夢があったのだ。人間は永続するもの、普遍なるものを得ようと、日夜努力していたのだ。そのどちらの要素も情報にはない。情報はごく一時的な知識であり、かつその正誤は度外視されている。その上、新しい情報が生れれば意味を失い、真の損得には無関係である。永遠性のある情報などというものはこの世にない。誰もプラトンの与えた“情報”、カントの与えた“情報”、トインビーの与えた“情報”などとは考えない。彼らが教えたのは、情報の虚(むな)しさであった。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 林は自殺未遂をした挙げ句、メディアという世界から逃げ去った。そして、毒されたメディアを擁する日本という国家から脱出し、オーストラリアに避難する。失った自分を取り戻すために。林は一切の情報を遮断し、山林に隠棲する。妻も去って行った。彼は孤独へ向かい、孤独を堪能し、孤独の豊かさを味わい尽くす。独りで本を開きながら……。


 情報、知識、思想、哲学、宗教の違いは何か? 言葉が構成しているにもかかわらず、何がどう違うのであろうか? 「魂に与える衝撃の度合い」などと言ってしまえば格好がつくように思えるが、変化の持続性という意味では賞味期限と一緒だ。たぶん賞味期限なのだろう。


 ソクラテスは文字を嫌った。なぜなら、文字は死んでいるからだ。文字ではソクラテスが求める「対話」は成立しなかった。


 通信やメディアの技術革新によって高度情報化社会は到来した。情報は膨(ふく)れ上がり、その遠心力でもって解釈や解説が放射される。情報は光のように凄まじい速度で拡散する。


 宗教は裁断され、哲学は断片化し、学問は細分化された。こうして全ての言葉が「情報化」されつつある。カタカナ語が拍車をかけて、言葉から意味性を奪って印象性だけを与えようとする。フィーリングってやつだよ。重みを失った言葉は宙に浮かんで空回りし続ける。


 我々の頭の中は、粉砕された情報で埋まっている。まるでゴミだ。リサイクルすることもなければ、ディスククリーンアップもデフラグもしない。脳は宇宙塵で構成されている。無意識はダークマター暗黒物質)だ。


 だが、宇宙の摂理はバラバラになったエネルギーを再び高密度・高音へと誘(いざな)い爆発を起こす。とすれば、今足りないものは何か? それは「新しい哲学」だ。宇宙塵と化した我々一人ひとりが何かを求めて、微妙に影響を及ぼし合い、手掛かりとなるような光子(こうし)を見つけることができれば、世界は――そして我々は――再び何かを誕生させるに違いない。


 あるいは「新しい歌」か――。


おテレビ様と日本人