古本屋の覚え書き

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小田嶋隆による『広告批評』批判 その一/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆

 ・『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆


「その三」まで続く予定。ご存じのように『広告批評』という雑誌を主宰したのは天野祐吉だった。何を隠そう私も昔っから嫌いだった。あの飄々とした文章や物腰は、悪意を封印する目的があったと推察している。結論は常に断定を避け、善悪をウヤムヤにしているような印象を受けた。一言でいえば「つかみどころのない人物」ってことになる。ま、ヌメヌメ野郎と言い換えてもよい。


 天野は元々博報堂のサラリーマンだった。きっと、ここで学んだノウハウを生かして、広告をテコにして儲ける手法を編み出したのだろう。結局のところ、付加価値を捏造しただけに過ぎないのだが。


 オダジマンの天野批判は極めて常識的である。であればこそ、批判の切っ先が鋭くなるのだ。

 で、まずは
「すべては広告だ」
 という、この、どうにも図々しい断言について検討してみることにする。
 ふうむ、……なるほど。
「すべては広告だ」
 と、単純に断言されてしまうと、なんだかそんな気もしてくる。
 ……という、ここのところに既に広告的手法のワナが見えはじめているではないか。つまり、この「すべては○○だ」なる言い回しが、既にして広告なのだ。つまり、広告的なうさんくささに溢れた、一種の目くらましなのである。
「すべては○○だ」
 という、この成句の論理的構造においては、大胆に(あるいは無責任に)言い切ってさえしまえば、○○の中身は、事実上何であってもよろしい。
 たとえば、
「すべては大根だ」
 でも、一応の説明はつく。
「太陽のめぐみは、往々にして日の当たらない場所に蓄えられる」とでも解釈すれば、それらしく見える。
 もっと思い切って
「根も葉もない大根は存在しない。故に大根は常に真実である」
 てな具合に深読みすることもできるし、さらに一歩推し進めて「大根は地下の太陽だ」ぐらいはフカしてもよろしい。
 それどころか、そもそも「すべては人参である」でも、「すべてはカルピスウォーターである」でもなんでも、どうにでも解釈は成立するのであって、要するに、「すべては○○である」なるキャッチコピー(これは、意表をつくものであればあるほど良い)の後に、種あかしのボディコピー(もちろんどんな嘘をついても良い)をつけておけば良いのだ。
 ちなみに言えば、この種の広告的断言には、昔からいくつかのパターンがある。
「時代は、いま、○○」
「○○の数だけ、○○がある」
「○○を見るものは、○○を知る」
「すべての歴史は○○の歴史である」
 広告であれ格言であれ聖句であれ、一言をもって現実を切り取って見せる場合の技巧は似たようなものだ。そう、すべては神の思し召しであり、アラーの御心であり、御仏のこころざしであり、あるいはまたクライアントの胸先三寸であり、すべては○○だ、と言い切った瞬間に、全世界は単調になり、一色になり、ひとつの処理済みカタマリになり、結局は無意味になる。
 それが、言ってみれば広告の狙いなわけだ。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆洋泉社)以下同】


「すべては広告だ」と「すべては大根だ」を比較すると一目瞭然だが、小田嶋隆の圧勝である。すべてが大根であるはずがないのだ。無意味さが人々の耳目を引きつける。「エ、どうして?」と疑問を抱かせるのも、広告手法の常套手段なのだ。その上、これほど馬鹿げたコピーでありながら、解釈には異様な説得力がある。


 天野祐吉の章の見開きには、こう書かれている――

 広告屋の広告塔 天野祐吉 ゲスのアド知恵


 説明するまでもないが、アド(advertisings)=広告ね。何とはなしに、広告塔が「ものみの塔」に見えてくるよ。天野祐吉の乾いた表情と、作為的な言葉がユダヤ人を想起させる。根拠は何一つない。単なる印象だ。四の五の言わず、そう思うように努力してみろ。


 先ほど検索結果で知ったのだが、『広告批評』って休刊したんだね。この記事でも天野は「マスメディア広告万能の時代は終わった」などと勝手なことを言っている。しっかし、相変わらずだね。