古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 ・知の強迫神経症
 ・あらゆる事象が記号化される事態

『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール


 ボードリヤールはまるで昆虫のようだ。鋭敏な触覚で時代の動向を察知し、強迫神経症的なレトリックを並べ立てる。その姿は驚くほど色彩鮮やかで、胸の悪くなるような形状をしている。あるいはフグか。毒性をもって舌をピリピリと刺激し、油断をすると死に至ることもある。


 面白い。しかしチンプンカンプンだ。「あのさー、どうでもいいから、もう少し普通の言葉で話してくれる?」ってな感じだ。「ハイパー」だとか「トランス」だとか言われても、こっちにゃてんでわかりやしない。私は密かに「ハイパー野郎」「トランスおじさん」という渾名(あだな)を進呈したくなった。


 ボードリヤールの触覚は細部を拡大し、デフォルメし、原色で染め上げる──

 世界と事物の現状を一言でいえば、狂宴(オージー)の後の状態だということになるだろう。狂宴、それは近代性が爆発する瞬間、あらゆる領域での解放がなされる瞬間だ。政治的解放、セックスの解放、生産力の解放、破壊的諸力の解放、女性の、子どもの、無意識の欲動の解放、芸術の解放。表象行為の全モデルと反・表象行為の全モデルは昇天した。現実的なもの、理性的なもの、性的なものの狂宴、批判的なものと反・批判的なものの狂宴、経済成長と成長の危機の狂宴、つまりあらゆる場面での狂宴が起こったのだ。われわれはモノと記号とメッセージとイデオロギーと快楽を生産(事実上は過剰生産)するあらゆる過程を駆けぬけた。今日では、すべてが解放された。ゲームは終わったのだ。いまやわれわれは、全員が最後の問いの前にいる──【狂宴の後で何をしようか】? われわれは、もはや狂宴と解放をシミュレーション化することしかできない。つまり、加速しながら全員が同一方向にむかっているふりをしているが、われわれの行き着く先は、じつは虚無でしかない。というのも、解放を正当化するあらゆる合目的性はすでにわれわれの背後に遠のき、あらゆる結果が予測されてしまったという感覚、あらゆる記号と形態、あらゆる欲望が入手可能になったという事実が、強迫観念のようにわれわれにつきまとっているのだから。これから先、いったい何をすればいいのか? この発想こそがシミュレーションの状態そのものだ。すべてのシナリオが──現実に、あるいは潜在的に──すでに過去のものとなった以上、使い古しのシナリオを再上演するほかはない状態。すべてのユートピアが実現された状態。ユートピアがあたかも実現されていないかのように装いながら生きつづけねばならない状態。だが、じっさいには、ユートピアはすでに現実のものとなり、われわれはもはやユートピアを実現する希望をもちつづけることができないので、われわれとしては、不確実なシミュレーションというかたちで、それらをハイパーリアル化するほかはない。今後は、われわれの背後にしか出現しないであろう理想や幻覚や夢の不確実な複製のなかで、われわれは生きることになる。それらを、宿命的な無関心状態において再生産することが、われわれのつとめであるような時代が始まる。


【『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)】


 資本主義が行き着いた地点、あるいは消費社会のなれの果てを描いているのだろうが、どうもピンとこない。狂宴は世界中で行われたわけではあるまい。アフリカやアジアの大半の国は水と食糧の不足に喘いでいるのだ。


 資本と人の移動が局部に集中するという意味なら、辛うじて理解可能となる。確かにバブルが弾けた後は、コンサートが終了した会場のような侘(わ)びしさが立ち込めていた。


 あるいは情報の肥大化。インターネットの登場によって、それまではマスメディアの受け手に過ぎなかった人々が自由に意見を発信できるようになった。ま、世論を動かすほどのパワーには欠けるが、バイアスが掛かったメディア情報を検証することができるようになった意味は大きい。それに伴ってデマ情報やゴミ情報も増えたわけではあるが。


 川は海へと流れるものだが、我々の欲望が辿り着くのは「虚無」であるとボードリヤールは指摘する。つまり、欲望の川は砂漠を流れていたわけだな。不毛。ペンペン草も生えていない。干上がるオアシス。息絶えた動物が見る見る白骨化する世界だ。


 虚無へと誘(いざな)うのは倦怠か、あるいは疲労か。ひょっとしたら絶望なのかもしれない。


「ハイパー」という言葉は、「超」の上を意味する。つまり、ハイパーリアルとは超超現実になる。絵画にスーパーリアリズムという手法がある。影や反射を現実よりも鮮やかに描くことで、更なる現実性を表現したもの。それを超えるリアリズムとなれば、影を実体よりもくっきりと描く必要が出てくる。


 ボードリヤールが言うようなハイパーリアルな舞台装置が求められているとすれば、それは我々が実体を失ったことを意味する。いつの間にか我々は、欲望の影みたいな存在になっていたのだ。


 一人の存在は相対化され、限りなく透明になりつつある。国民、消費者、サラリーマン、視聴者、投票率世論調査のパーセンテージなど、私という存在は必ず何かにひっくるめられている。


 実体を失ったとすれば、我々は何なのか? ひょっとして単なる機能なのか? それじゃあまるで「お金」と変わりがない。マネーには最初っから実体がない。国家におけるただの約束事だ。そのマネーも虚像の姿を惜しげもなくさらしている。実体経済を軽々と凌駕する大量の資本が金融マーケットに流れ込んでいる。


 すると、人が多すぎるってことなのか? 人間デフレ。供給過剰。価値の下落。余剰人員の削減。


 ボードリヤールは面白い。でも、線が細い。世界を見物している観客による超一流の野次といったところだ。


自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他