古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

孤独な魂が発する鮮烈なメッセージ/『小説家の覚悟』丸山健二

 ・孤独な魂が発する鮮烈なメッセージ

『メッセージ 告白的青春論』丸山健二


 痺れた。心が震えると言うよりは、痺れたと言った方が正確だ。打たれたと言ってもよい。地震ではなく雷のそれだ。


 私が始めて丸山の作品を手にしたのは、今から7年前のことだ。以前から探していた『メッセージ 告白的青春論(角川書店/絶版)』を神保町の古本屋でやっとの思いで見つけた。拳で殴り掛かってくるような内容に度肝を抜かれた。23歳で芥川賞に輝いた人間とは思えなかった。更に、文学とは余りにも懸け離れた生きざまに目を剥(む)いた。ペンを持つには太々(ふてぶて)し過ぎた。原稿と向き合うには筋肉がつき過ぎていた。恐ろしい男だ、と思った。凄い、と唸った。正真正銘の自立した男がそこにいた。山頂に吹雪を抱く山の如く屹立していた。吐き出される言葉は、マジックで描(か)かれた線のように黒々とした太い輪郭を持ち、辛辣な表現は、彫刻の線のように深く彫り込まれている。


 丸山のエッセイは、何を言いたいのかよくわからない箇所は一つもない。誤解のつけいる隙もない。どっちつかずの淡い色や、思わせぶりな玉虫色などどこを探しても見当たらない。断固たる意志と、明確な目的観と、鋭敏な観察眼によって、光と闇を描き上げる。暴力的な匂いをプンプンまき散らしながら。

 ある編集者がおれに訊いた。どんな読者を対象にして小説を書いているのか、と。おれは素早く答えた。目的を持ってがむしゃらに生きている若者か、そうでなければきちんと働いて妻子を養っている男だ、と。(240p)


 30代半ばにして丸山はこう語る。要するに自立した男だ。当たり前と言えばこれほど当たり前の話はない。しかし、こんな当然のことが余りにも無視されていないだろうか。見て見ぬ振りをしていないだろうか。売れればよしとして、読者に媚びへつらい、書き手の魂まで売ってしまう。そうした人間が相手にするのは、判断力の欠けた低年齢層か、とうの昔に夢を捨て去ったストレスまみれの中高年であろう。丸山は違う。自立した男として、読み手に対しても自立を求める。傲慢なようでありながら、そうではないことに気づく。読み手と書き手との対等な関係、緊張感をはらんだ向かい合う位置を望んでいるのだ。「おまえは、どうなんだ?」と彼は問う。過密な都市の中で誰かに、もしくは何かにもたれて立っていやしないか? モノや情報が溢れる社会の中で、本当に自分で考えた意見を持っているか? 自分で自分の責任が負えるか? 力のこもった拳が容赦なく振り下ろされる。要求されるのは、踏みこたえる力。


 三木清が『人生論ノート』(新潮文庫)で、こう書いている――

 個人であろうとすること、それが最深の、また最高の名誉心である。


 丸山健二は「おれは芥川賞作家だ」とは絶対に言わない。「おれはおれだ」とこれみよがしに言う。「おれ以外のなにものでもない」と。


 虚飾をはぎ取った孤なる魂の輝き、そこにのみ独立自尊の確固たる自負が生まれる。文壇とのつきあいを一切拒否し、ストイックな行動を貫くのも大いに頷ける。一見、乱暴に思える話も、眼をこらしてみると実に常識的な意見が殆どである。


 更に丸山の特長の一つは、生々しい科白にある。寸鉄人を刺すピリリとした締まりと、カギカッコで括らねばならない重みが感じられる。生き生きとした場面展開に息を吹き込み映画のワンシーンのように肉迫し、立体化する。


 それにしても、「それじゃあ、おまえに何かほかのことでもできるのか」(97p)、「やるやつは黙ってやるさ」(98p)こうした科白が高倉健の声で聞こえるのはどうしたことか。


 小説家であることに対する後ろめたさが、妄想の如くつきまとっているところが、また凄い。

 山なんぞに住んで、犬なんぞを飼って、小説なんぞを書いて、日だまりなんぞにうずくまって、みじめったらしくしか生きられないのかと思うたびに、腹が立つ。(67p)

 小説を書くなんてことは、いい若い者のする仕事ではなかった。(214p)

 小説家でもいいやと思う。(121p)


 ある時などは「こんなオカマみてえな仕事がやっていられるか!」(314p)と怒鳴るありさまだ。


 丸山は言う――

 本当は現実ほど面白いものはないのだ。どんな小説よりも面白い。ときには叩きのめされるようなこともあるけれど、滅茶苦茶だと思うこともあるかもしれないが、それでも、それだからこそ現実は面白いのだ。
 もちろん失望する回数は多いし、汚いといえば汚い。だが、ときどきそのなかにキラッと光る何かを発見することがあり、その感動こそ本物だとおれは思う。(261p)


 これほど真っ当な意見を言う作家が果たしていたであろうか。


 現実を踏まえた言葉は、男であれば断じて無視し得ない直截な響きをはらんでいる。


 しかしながら、職業作家として自立を極める彼はこうも言う――

 小説を書き上げたときの気分も確かにいいが、こうして次なる小説の入口に立って武者震いするときの気分もまた格別だった。それは毎回新鮮で、回を重ねれば重ねるほど刺激が強まるのだった。(340p)


 作家として常に挑戦し続ける矜持。より高い世界を志向する貪欲さ。


 更にこうも言う――


「一年におよそ一作仕上げるたびに充実感は増し、山登りにも似た、あるいはそれ以上の醍醐味と手応えをつかめるようになり」(349p)やがて未踏の文学の山並みが見えてきた、と。


 そうした感慨は『千日の瑠璃(上下)』(文春文庫)を読めば実感できる。独走が独創へと昇華し結実した、ものの見事な作品である。


 激しい振幅を繰り返しながら、新しい自己との邂逅(かいこう)を求めて、丸山は強靱な足腰で走り続ける。


 徹底して孤であろうとする精神が、尊厳なる個を際立たせ、鍛え抜かれた鋼(はがね)のように強い光を放つ。