丸谷才一の『思考のレッスン』(文藝春秋)を読み終えているのだが、書評が上手くまとまらないので、次号に回すことにした。原稿に困った時は『千日の瑠璃』に限る。


 語り手は、会社帰りの工員が砂利道に落とす「影」である。

 私を足枷のように引きずりながら浮かぬ顔で歩くかれらのなかに、これはと思う人物はひとりもいない。つとに将来を属目されている者、誰かを見返してやるほどの気概を持っている者、妻の暴言に色をなして反論できる者、頭打ちになってしまった給料のことで経営者に堂々と掛け合える者、そんな男はいない。いるわけがない。


 小心翼々として現状に甘んじる生き方を否定するペン先が男の何かをつつく。「そんな男はいない。いるわけがない」とまで書かれては、安閑と座しているわけにはいかない。挑発された読者は背筋を伸ばして立ち上がろうとするはずだ。



千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)