古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『テレビ標本箱』小田嶋隆



『我が心はICにあらず』小田嶋隆

『安全太郎の夜』小田嶋隆

『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆

『山手線膝栗毛』小田嶋隆

『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆

『コンピュータ妄語録』小田嶋隆

『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆

『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆

『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆

『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆



 ・『テレビ標本箱』小田嶋隆



『テレビ救急箱』小田嶋隆



 小田嶋隆ナンシー関の衣鉢を継ぐことを試みた作品。残念ながら私はナンシー作品を一冊も読んでない。それにしても、小田嶋隆の目のつけどころと、説明能力の高さには、いつもながら驚かされる。オタクの視線が社会と時代に向けられると、諸問題をカミソリのような鋭さで切り刻んで見せてくれる。オダジマンの作品を読んでいる間、私は自分が天才になったような気分を味わう。


 タイトルからもわかる通り、テレビ番組・テレビ業界、そしてテレビに巣食う人々を切り取って、虫ピンで留められている。もちろん、虫ピンは急所に刺されている。それでも死なないのがテレビの恐ろしさだ(笑)。


 虫ピンは寸鉄の趣があり、メディアリテラシーの教科書といってよいだろう。情報というものは、必ず発信者側の意図によって選別され、脚色が加えられる。だからこそ、テレビ情報は疑ってかかる必要があるのだ。

 具体的に言うと、この5年のあいだに、テレビの世界では、ドラマが衰弱し、スポーツ中継が弱体化し、落語が駆逐され、芸能ジャーナリズムが死滅し、その一方で、オカルトが息を吹き返し、業界コネが幅をきかせ、番宣がはびこるようになり、現場では、いじめとやらせとパクリが横行するバラエティーの地獄が現出するようになっていた。
 つまり、テレビは社会を切り取る枠組みであることをやめて、もっと下世話な場所に向かって開かれたのぞき窓の如きものに変貌しつつあったわけで、それに合わせて私の書くコラムも徐々に下品な……というのは、わかっている。言い訳に過ぎない。


 ということは、テレビのイエロージャーナリズム化といってもよいだろう。大衆の下司(げす)な感情を刺激する情報をテレビ界は求めている。最近の話題であれば、「居酒屋タクシー」なんかがその典型だ。道義的に認められるべきものではないが、日本には古来から「贈与の文化」があるのだから目くじらを立てるほどの問題ではない。タクシー側にすれば、単なる謝礼に過ぎなかったことだろう。


 昼のメロドラマを見てごらんよ。もうね、『極道の妻(おんな)たち』と変わりがないから。日常生活には存在しない愛憎劇を堪能することで、主婦達は生活にスパイスを振りまいているんだよ、きっと。

「ファイナルアンサー?」と、みのが迫る……カメラがぐぐっと寄る。約3秒間のアップ。画面いっぱいの、みの。驚異的な顔面圧力。窒息的な引っ張り。凄い。……現代の悪代官みたいだ。
 水道メーターの談合でも、この顔を使ったんだろうか? 最終入札価格を調整する時、みのは、「ファイナルプライス?」と、言ったのだろうか。
 ……毎日、テレビをつけると、必ず、みのもんたが出ている。たぶん私は、親戚縁者の誰よりも頻繁にみのと会っている。いや、家族の誰よりも、かもしれない。
 いやだなあ。
 で、結局、私の書斎は、みの常駐型のテレビのおかげで、嫌いな上司が巡回しているオフィスみたいな感じの、容易にくつろげない空間になっているわけだが、どうだろう、ソニーあたりが、みの強制削除機能付きのテレビを開発したら、オレは買うぞ。10万までは出す。みの排除機能が付くなら、さらに5万円出す。どうだ?

「みの強制削除機能付きのテレビ」には私も一票を投じたい。あんな悪党面(づら)が、これほど長時間にわたってブラウン管を占拠することに耐えられない。みのもんたが振りかざす正義は、新橋あたりの呑み屋でくだを巻くサラリーマンレベルの代物であろう。それでも状況は、我々「反みの党」に不利だ。政治家ですら、みのもんたを無視できない状況が既に存在している。タレントは所詮、温泉芸者みたいなものである。金次第で何でも踊ってみせるのが仕事のタレントが、ジャーナリストみたいな真似をし始めたら要注意だ。彼等は必ず、金を出す人間の言いなりになっているからだ。

 彼らは二言めには「オウム」という単語を繰り返した。
「オウムの例もありますから」という、この12文字が、あらゆる過剰な取材と失礼な報道を免罪する魔法の呪文だというみたいに。
 昔はこうではなかった。町外れにちょっと様子のおかしな人々がたむろしていても、住宅街の一角に奇天烈な風体の一団が蟄居していても、それだけではニュースにはならなかった。
 流れが変わったのは、オウム以来だ。
 思えばオウム事件は、メディア(および視聴者)の「不寛容」と「野放図」が、正式に免罪されたという意味で非常に意義深いエポックだった。言い方を変えるなら、オウム事件を通じて、リベラルという立場は急速に力を失ったのである。「あんたら気取り屋のリベラルが、人権だのなんだのと甘えたことを抜かしてるから連中にサリンを撒かれたんだぞ」というわけだ。
 なるほど、オウム事件のピークでは、別件逮捕や現場警官の裁量権の拡大を何よりも嫌っていたはずの人権派弁護士や市民派の論客が、異口同音に警察に対して強権の発動を促していた。ってことは、結局、リベラルという思想ないし立場は、気取りに過ぎなかったのだろうか。はっきりしているのは、白装束の一団が追い回されている理由が、危険だからでも違法性が顕著だからでもないということだ。彼らは単に「絵になる」から、カメラの餌食になっているのであり、「不気味で頓狂で予測不能でスリリングで、つまるところ、極めてテレビ向けの素材」だからこそ、連日報道されている。


「白装束の一団」とはパナウェーブ研究所のこと。あの時のメディアスクラムも酷いものだった。かような問題で私がいつも思い出すのは、雪印集団食中毒事件である。記者会見の時間延長を求める記者団に対して石川社長(当時)が「君ねえ、そんな事言ったってねぇ、私は寝てないんだ!」と発言。これに対して一人の記者が「こっちだって寝てないんですよ。そんなこと言ったら食中毒で苦しんでる人たちはどうなるんだ!」と猛反発した。確か、階段の踊り場での出来事だったと記憶している。この場面だけ何度も何度も繰り返して放映された。それ以降、報道陣の仕事には「失言を引き出す」ことが加えられたような気がする。冷静に読めば明らかに報道陣の発言はおかしい。お前が寝てないのは、お前の勝手だよ。よもや、雪印の社長に「寝るな」と言うつもりではあるまい。結局、マスコミの言いなりにならなければ、いつでも脅しを受ける状況が生まれて今日に至っている。


 総じて、公共の電波を使いながら、許認可事業の恩恵に浴しながら、テレビ業界の無責任ぶりは目を覆いたくなるほどの惨状を呈している。嘘・デマ・やらせは朝飯前。噂話の類いも平然と垂れ流し、誰かが叩き始めると、みんなで叩きまくる。まるで、一ヶ所しか出てこない「もぐら叩き」みたいだ。


 情報化時代にあっては、情報の取捨選択が最も大事な作業となる。手っ取り早い方法としては、テレビを消して、雪山堂(せっせんどう)の本を買って読むことである。ウン、間違いない。断言しておくよ(笑)。


小田嶋隆