古本屋の覚え書き

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戦争は「質の悪いゲーム」だ/『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆


 3分の1ほどがゲームソフトのレビューだ。それでも、ゲームにまるで関心のない私に読ませるのだから、オダジマンのペン先の鋭さには恐れ入ってしまう。


 小田嶋隆の著作を読むと必ずと言っていいほど反戦志向が窺える。だがそれは、ありきたりな平和論とは全く異なる。言ってみれば、毒をもって毒を制する手法だ。オダジマンは、戦争を揶揄し、嘲笑し、愚弄し、ゲロを吐きかける。小悪でも大悪に反対すれば大善となるが如し。


 この態度には当然、賛否両論があることだろう。だが、私は「よし」とする。なぜなら、私はオダジマンが吐き捨てた唾(つば)に魅了されてやまない一人であるからだ。言論の世界にあって、誠実なストレート球は時として、思いっ切り打ち返される羽目となる。オダジマンが投げるのは、打者がのけぞるようなクセ球なのだ。たとえデッドボールになっても大丈夫だ。相手チーム全員にぶつければ試合は続行できないのだから。

 で、告白するが、今回の戦争(※湾岸戦争)を、私はあくまでもゲームとして観ている。
 不謹慎な話だが、私以外にも、そういう人は多いと思う。彼ら(私も含めて)は、口では人命の尊さや戦争の非人間性を唱え、街頭でマイクを向けられれば「ええ、戦争には絶対に反対です」などと言っているが、その実、ニュース報道を面白がっていたりするのである。
 恐ろしいことだ。
 戦争は、マクロ的な視点から見れば、確かにひとつの面白いゲームなのだが、ミクロの目で戦場を見てみれば、そこは単なる地獄だ。その地獄を、面白がっているのであるから、これは、どう考えても、絶対にふざけきった話であり、弁解の余地はまるでない。
 でも、一言だけ弁解させてください。
 私のような無責任な面白がりは、絶対に戦争をしないのだ。ゲームにはつき合っても戦争にはつき合わないのである。
 歴史を振り返ってみれば明らかな通り、戦争は、戦争を「面白がる」余裕なんてさらさら持ち合わせず、眉間にしわを寄せてリキみ返り、「正義の感情」にたやすく身を焦がし、そして、最終的には「平和を守る」ために「闘って」しまうような、そういう小児的熱血挺身傾向の人々によって引き起こされるものなのだ。
 我々ゲーマーは、戦争みたいな、洗練度の低い、質の悪いゲームにはつき合わない。せいぜい高見の見物を決め込んで、嘲笑するだけだ。


【『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆朝日新聞社、1992年/朝日文庫、1995年)】


 確かにそうだ。いつだって、そうだった。戦争は緊迫しきった状況の中で、やむを得ざる判断として遂行されてきた。政治家どもが「苦渋の選択」なんて言い出す時は、間違いなく陰で舌を出していることだろう。半世紀前は国家の危急存亡を叫び、今世紀に至っては国際社会における人道支援という大義名分で、我が国は戦争に加担してきた。


 そもそも、日本が戦後の貧困を脱することができたのは、朝鮮戦争による特需だった。そして、ベトナム戦争が高度経済成長に、湾岸戦争がバブル景気に、イラク戦争が「いざなぎ景気超え」に直接結びついていた。つまり、米国が戦争を始めれば、日本経済は潤う仕組みになっているのである。アメリカが風邪をひけば日本がくしゃみをし、アメリカが暴力を振るえば日本の懐が暖かくなるってこったな。


 そして、戦地という地獄に送り込まれるのは、いつだって無名の庶民だ。女性という女性は頼んでもいないのに、銃後を守らされてしまうのだ。戦地と無縁なのは政治家と官僚だ。連中は文民として統制する側の人間だ。コントローラーを握っている者が気にかけるのはスコアだ。死んだ兵士のために涙を流す暇などない。得点、また得点だ。


「小児的熱血挺身傾向」がある人ほど憎悪を煽られやすい。サラエボアフガニスタンで起こったことを我々は直視しなければならない。そして、小田嶋隆と共に唾棄してみせるのが、人間として正しいあり方だろう。


パソコンゲーマーは眠らない(単行本)


パソコンゲーマーは眠らない(文庫本)