『いまここに在ることの恥』辺見庸

 無神論者であることを白状しながら『自分自身への審問』という著作を出し、次にあたかも武士道を思わせるこのタイトルである。マルクス・レーニン主義者であることを払拭したいのだろうか?

「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」という。一人がでたらめを語ると、多くの人々がそれを真実として広めてしまうものだという後漢のたとえである。小泉執政の5年ぐらいこの言葉を考えさせられたことはない。
 私の興味は「一犬」の正体や小泉純一郎という人物のいかんにあるのではなく、「万犬」すなわち群衆というものの危うい変わり身と「一犬」と「万犬」をつなぐメディアの功罪にある。
 もっといえば、21世紀現在でもファシズム(または新しいファシズム)は生成されるものか、この社会は果たしてそれを拒む文化をもちあわせているのだろうか――という、やや古典的な疑問をもちつづけている。


 辺見氏の主張が、私は全く理解できない。例えば、「イエロージャーナリズムはあっても構わないが、メディア・リテラシーを身につけよ」とでも言いたいのだろうか? 大体、“ファシズムを拒む文化”なんて面倒なものを論じる前に、言論人として小泉政権に何らかの打撃を与えることができなかった自分の力量を恥じるべきではないのか? そもそも、9.11テロ直後のブッシュ政権や、郵政解散選挙で自民党が圧勝した事実を鑑みれば、ファシズムはそこここに存在する。


 ファシズムポピュリズムを批判するのは一番簡単なことで、そこで止まってしまえば、「ダニの如き言論」と化す。小心翼々としたタイトルだが、本当に恥ずかしいのであれば、隠れるべきだろう。