古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ジャック・リーチャー・シリーズ第1作/『キリング・フロアー』リー・チャイルド

『前夜』リー・チャイルド

 ・ジャック・リーチャー・シリーズ第1作

『反撃』リー・チャイルド
『警鐘』リー・チャイルド
『葬られた勲章』リー・チャイルド


 面白かった。だが内容を覚えていない。正確に言おう。相前後して読んだ『前夜』とグレッグ・ルッカの作品とが、記憶の中でごっちゃになっているのだ。


 リー・チャイルドの作品はおしなべて手堅い。高校生のバッターがセンターから右方向へヒットを狙うような印象を受ける。ただし読んでいる最中はさほど気にならないのだが、読み終えると「上下巻にするほどの内容か?」と思わざるを得ない。もっと刈り込めば余韻が深くなるはずだ。


 とはいうものの読み手は作家に多くを求めるべきではない。全知全能は神様に任せておけばよい。4番打者ばかり集めてしまうと、ナベツネ巨人軍のように醜悪なものとなってしまうだろう。


 本書がリーチャー・シリーズの第1作となる。突然逮捕されたリーチャーが容疑を晴らし、凶悪犯罪を追求するといった内容。女性捜査官との色恋つき。アンソニー賞最優秀処女長編賞。

 私は彼を注視した。6時だ。バスがくる。
「あんたが思っている以上に知ってるよ。あんたはハーヴァードの大学院出で、離婚歴があり、4月に禁煙しただろう」
 フィンレイはあっけにとられた顔をした。


【『キリング・フロアー』リー・チャイルド/小林宏明訳(講談社文庫、2000年)以下同】


 これが元エリート軍人の観察力だった。説明能力がプラスされることで完璧な洞察力となる。

 ロスコーは、信じられないといった顔で、私を見た。そして、頭を左右に振った。
「そしたらなにをしたの? 4人とも殺した?」
「3人だけだ。4人目は生かしておいて、質問に答えさせる」
 私は全面的な確信をもってそう言った。


 ジャック・バウアー並みの冷徹ぶりである。軍人の暴力性はロジックによってコントロールされている。常に目的が優先されるのは当然だ。感情は長続きしない。高いレベルを維持するために訓練が繰り返される。戦術は戦略から導き出される。躊躇(ためら)い、逡巡は許されない。その場の判断力が次の戦闘に直結しているためだ。


 いかなる分野であろうと、力のあるリーダーは情熱と冷酷さを併せ持っているものだ。「鳴いて馬謖を斬る」(『三国志』)場面で温情をかけてしまえば、組織は必ず腐ってゆく。「戦う」意識があれば、なあなあで済ますわけにはいかない。人の強さと弱さを分かつのはここだ。


 リー・チャイルドが侮れないのはプロット以外の記述。正確でありながらも踏み込んだ文章には目を瞠(みは)るものがある。

アメリカ経済は膨大なものです。資産も債務も、計算できないほど膨大です。何兆ドルにもなります。しかし、どちらも現金化されているわけではありません。あの紳士だって、50万ドルの資産をもっているが、現金はいま50ドルしかもっていない。のこりはすべて書類上かコンピュータのなかにあるんです。ようするに、現金があまり出まわっていないということですよ。アメリカ国内では、1300億ドルしか現金がありません」

「説明がむずかしいわ」モリーは言った。「信頼と信用の問題なのよ。ほとんど形而上学的と言ってもいいくらい。もしも外国のマーケットに贋ドルがあふれたとしても、それ自体はたいした問題じゃないの。でも、外国のマーケットで売り買いをしている人たちがそれに気づいたら、それこそ問題。みんなパニックになるからよ。信頼も信用もがた落ち。もうだれもドルをほしがらなくなる。日本の円やドイツのマルクに鞍替(くらが)えして、マットレスのなかに詰め込みはじめる。ドルは紙くず同然に捨てられる。その結果、一夜にして、政府は2600億ドルのお金を外国に払い戻さなきゃならなくなる。一夜でよ。そんなことができるわけがないわ」


 経済に興味のない人であれば、漫然と読み過ごしてしまう箇所だろう。実にわずかな言葉で信用創造を巧みに表現している。こういうところをきちんと読めば、ミステリ作品からも色々なことを学ぶことが可能だ。


 二つの死体が発見される。壁に釘打ちされた男。そして妻は夫の陰嚢(いんのう/キンタマ)を飲み込まされていた。リーチャーは犯人を追う。

 待ち伏せする場合は、待つことが戦いに勝つ秘訣だ。用心深い敵ならば、はやく現れるか、さもなくば遅く現れる。相手の不意をつくことができると思うからだ。敵がどんなにはやくこようと、こっちはもっとはやくから待っていればいい。どんなに遅くなってからこようとも、ずっと待っていればいい。我を忘れて恍惚(こうこつ)状態になるまで待つことだ。強靭(きょうじん)な忍耐力が必要だ。いらいらや不安は禁物。ただひたすら待つのだ。なにもせず、なにも考えず、エネルギーをいっさい浪費せずに。そして、いざとなったらすばやく行動を開始する。1時間後だろうと、5時間後だろうと、1日後だろうと、1週間後だろうと。待つことはたいせつなテクニックだ。


 待つことが瞑想の域に達している。一意専心は脳細胞のフル活動を意味する。集中ではなく注意。目ではなく耳。大気の振動に鼓膜をシンクロさせた時、シナプスはあらゆる変化に反応する。


 人生にも待つべき時と進むべき時とがある。嵐の時はいたずらに前進すべきではない。変化を読み誤るとエネルギーを分散する羽目となる。伏(ふく)するは伸びんがため、という。とすれば雌伏(しふく)にも充実があるはずだ。