ミステリにしては随分と内向的な主人公だ。アルバート・サムスンをおとなしくしたような印象。で、中味が面白くないかというとそうでもない。個性的な脇役がぐいぐいストーリーを引っ張ってゆく。
探偵のビルはピアノが趣味だ。ただし、人前では弾かない。折に触れてピアノのシーンが挿入される――
タイマーが鳴る前に弾き終えたが、とくに終盤での速度が足りなかった。タオルで顔を拭(ぬぐ)いながら、その部分をもっと弾き込まなくてはと思った。だが、全般に、いい気分だった。今朝よりはるかにうまく、曲の核心に迫って弾いている。間もなく、曲を十分理解し、時計職人のように小さな部分を調整し、磨き上げることができるだろう。その時、音楽がわたしにもたらしたもの、わたしが音楽にもたらしたものが、指から紡(つむ)ぎ出されてくる。
もう一度弾きたいと無性(むしょう)に思った。形を成しつつあるものが実際に姿を現すまで、何もせずに数日弾き続けたい。今のままでは、あっという間に曲が消え失せるかもしれないし、そうなるともう取り戻せないことがある。このソナタを弾く心構えができるまで何年もかかった。今さら、それを失いたくない。
いいねー。文章の底に何とも言い難いリリシズムが流れている。シューベルトの「ピアノ・ソナタ」を聴いて驚いた。主人公ビルの雰囲気にピッタリだ。
不正を働くインサイダーとアウトサイダーの狭間で、ビルは執拗な捜査を続ける。この物語の真の主人公は「常識」だ。