たまにはこんな本を読むのもいい。いつも同じ思考回路を使っていると、脳味噌が凝り固まってしまう。興味本位で気ままにページをめくれば、脳のリラクゼーションにもなるというものだ。
性愛術というと、エッチな妄想を逞しくする男性諸君が多いことと思う。だが、そんな低いレベルの世界ではない。身体性や皮膚感覚、呼吸法からエネルギー循環までカバーされた奥深い世界なのだよ。そして、性愛術の歴史は人類の別な顔に光を当てる。
性の反対に位置するものは信仰であろう。キリスト教を中心とする宗教は、性を抑圧してきた歴史を持っている――
魔女狩り当時の西欧には「女は信仰も、法も、恐れも持たない、節操のない不完全な動物」という諺(ことわざ)があった。文化史家のパウル・フリッシャウアーは、「女も人間なのか?」という問いが、中世のキリスト教世界における宗論のテーマのひとつだったといい、「女性は、『呪われた性』で、その『不埒(ふらち)な使命』は人間を堕落させることだ、と考えられていた」と指摘している(『世界風俗史』)。
アダムをそそのかし人類を堕落させたイブの子孫は、教会にとっては古代から一貫して「呪われた存在」だった。しかし、教会が女を呪ったほんとうの理由は、神話にあったのではない。新たな生命を生み出すという“魔術的な力”は、女という性以外は所持していなかった。そこで、はるか古代の母権制の時代には、宗教も魔術も女が担(にな)った。
この“母の宗教”を滅ぼし、反自然的な“父の宗教”を確立するために、教会は女を否定し、セックスを否定し、母権制時代から続くカニバリズム――先にも述べたように、食われた者は女を通して再生する――を否定した。要するに、女にまつわるいっさいを不浄(ふじょう)なもの、罪深いものとして、封印しようとしたのである。
【『性愛術の本 房中術と秘密のヨーガ』(学研ブックス・エストリカ、2006年)】
「女は不浄だ」――この考えは男の弱さを露呈したものだ。女性を貶(おとし)めることで男性の優位を示したのだろう。南の島々に多分こうした考え方は存在しないことと思う。寒いヨーロッパの湿気(しけ)た考え方だわな。イエスはこんなことは説かなかったはずだ。
マリアの処女性というのも根は同じだ。ヨーロッパの連中って、よっぽど神経質なんだろうね。あと100年くらい経ったら、「卵子も穢(けが)れている」と言い出しかねない。
違いを強調し、拡大し、固定化させる論理は、おしなべて差別主義的な匂いがする。こうした考え方が文化となって継承され、歴史が育まれてゆく。
「男女は平等であるべきだ」と考えている私ですら、「女子供は引っ込んでろ」とか「ったく女ってえのあ、どうしようもないな」と日常的に言っているのだ。正確に言うならば、私は良識的なマチズモに該当する。「男は度胸、女は愛嬌」という言葉は真理であると思う。