日垣隆の様々なコラムが詰まった一冊。いずれも、しっかりしたデータを引用した上で検証されており、正確を期している。今時、珍しい姿勢だ。まるで、記者クラブ制度に甘んじている新聞社を嘲笑しているような気配すら窺える。そんでもって、タブーに切り込むのだから、見上げた根性の持ち主といえよう。
たとえば、精神分裂病にともなう妄想ゆえに放火や殺人をおかしてしまうことはありえても、通貨偽造や贈収賄を分裂病との因果で論じる必要はない。また横領や恐喝や業務上過失致死傷は、精神障害者のほうがそれ以外の者より犯しがたい犯罪である。つまり、全刑法犯を分母とし精神障害犯罪者を分子としたものだけをもって、あたかも精神障害者のあらゆる犯罪が少ないかのように見せかけるのはフェアではなく、それは事実の隠蔽というほかない。
青木医師や笠原名誉教授もよくご存知のように、なるほど《犯罪率は刑法犯でいえば検挙人員で0.1%、有罪人員では0.6%》だとしても(笠原前掲書)、《しかし、この比率は罪種によって大きく異なり、放火(検挙人員の6.3%、有罪人員の14.8%)や殺人(同6.5%、12.2%)などの凶悪犯罪では著しく高まる》のである。(前掲『精神分裂病と犯罪』)。
日本における精神障害犯罪者の実態を初めて明らかにした法務省調査によっても、確かに精神障害犯罪者÷成人刑法犯検挙人員(1980年)は0.9%だが、こと殺人ともなればその比率は8.5%、放火は15.7%に跳ね上がる(「資料 精神障害と犯罪に関する統計」=『法務総合研究所研究部紀要』第26巻2号、83年)。
殺人や放火という凶悪犯罪において、精神障害犯罪者の比率が1割前後にも達する事実は、これまでマスコミにおいては伏せられてきた(タブーというより記者たちの不勉強によるところが大きい)。「0.1%」というような数字は、ほとんどの読者は初めて目にしたのではないかと思う。
諸外国の統計によっても、殺人や放火などの凶悪犯罪で、精神障害者による犯行はきわめて高い比率を占めている。たとえばアイスランドでは80年間に生じた全殺人のうち37.8%が精神障害者による、という(Petursson.H. & Gudjonsson,G.H.:Psychiatric aspects of homicide.Acta psychiat,64,1984)。「精神障害社による犯罪は多くない」という主張は、退場すべき過去のイデオロギーによる産物だった。
我々はともすると「精神障害者に対する偏見を抱いてはいけない」という強い思い込みによって、“平等”を演じてしまう。で、マスコミの場合はもっと酷い。容疑者に知的障害の病歴があるとわかった途端、全く報道しなくなってしまうのだ。だが、よく考えてみよう。「知的障害があるのだから仕方がない」などと被害者が思えるだろうか。中には命を奪われた人も数多くいるのだ。
日垣隆は冷たい事実を挙げて問題提起をしているが、知的障害者が抱える問題にもきちんと触れている。
精神病院の入院患者たちに最も恐れられている独房(特別保護室)は、刑務所にさえ存在しない非人間的な私刑(リンチ)房であり、精神障害犯罪者専門処遇施設(日本になく欧米にはある)ならば特別保護室への罰則的収容は通常一日が限度とされているのに、日本の精神病院における特別保護室には3カ月以上も収容されている患者が2000人、しかも実に1年以上も監禁されている患者が1000人におよぶという、私のような〈人権派〉にはあまりにも信じがたい現実がある(日本精神病院協会の実態調査による)。
心神喪失認定による免責と事実不問と強制入院こそ“病者の人権”のためだと言い募ってきた人々は、この現実を何と釈明するつもりだろうか。
【同書】
結局、知的障害者の人権を擁護する人々は、かような現実に目をつぶっていると言わざるを得ない。「ロボトミー殺人事件」というのもあった。
今でも、子虐待をしている親には軽度発達障害の傾向が見られる。「育て方を知らなかった」と言ってしまえばそれまでだが、死んだ子供は返ってこない。人間には、よき可能性もあれば悪しき可能性もある。知恵を出し合って、現実に対処しなければ、万人が暮らしにくい社会となるのは必然である。