古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

権威者の過ちが進歩を阻む/『科学と宗教との闘争』ホワイト

『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店編集部編
『科学史と新ヒューマニズム』サートン:森島恒雄訳

 ・権威者の過ちが進歩を阻む
 ・化物世界誌と対蹠面存在否定説の崩壊

『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史
『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ
『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
『世界史とヨーロッパ』岡崎勝世
『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世

 驚くべき名著。見事な教科書本である。書かれてから何と100年以上経っている。原書は明治27年(1894年)の発行だ。1世紀という時を超えて、しかも海を渡ることなしに私は教えを請うことができるのだ。読書は偉大なり。


 ホワイトは序文にこう記している──

(ジョン・W・)ドレーパー教授はこの闘争を《科学と宗教》との間の闘争と見ている。が私は、この戦いを《科学と教条的神学》との闘争である、と当時も信じていたし、いまもそう確信している。


【『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳(岩波新書、1939年/改版、1968年)以下同】


 彼は敬虔なクリスチャンであった。そのため本書の内容も、科学と宗教との不干渉を主張するにとどまっている。要はきちんと棲み分けしろよ、ってな話だ。しかし歴史の事実は明らかに宗教(=教会側)に不利なものだった。ホワイトの意図は伝わらなかった。彼は囂々(ごうごう)たる非難にさらされた。


 それにしても凄い。新書のボリュームで西洋の宗教史と科学史を学ぶことができるのだから。望遠鏡で月を眺めているような気分になる。

 文明が発展するにつれて、この大地は球形だという観念が、とくにギリシャ人の間で生まれた。中でもピタゴラス派や、プラトンアリストテレスがこの考えを抱いた。この観念はばく然としたものであり、いろいろな矛盾をまじえたものであったとはいえ、それは思想の一つの萌芽であった。


 人類の先頭に立つ人物は、「見えているもの」が違う。視点が抜きん出て高いためだ。石につまずいて転ぶ者もいれば、地球の形状に思いを馳せる者もいる。新しき思想は脳内の回路をつなぎ変える。「俺達の住む世界って、ひょっとすると……」「丸い?」「……かもな」。これだけの情報であっても人口に膾炙(かいしゃ)すれば、全人類は生まれ変わっていたかもしれない。だがそうは問屋が卸さなかった──

 カエサリアのパシリウス〔4世紀の教父、聖人〕は「大地が球であろうと円筒であろうと円盤であろうと、あるいは盆のように中凹みであろうとあるまいと、そんなことはわれわれにはなんの関係もないことだ」と公言した。ラクタンティウス〔3-4世紀のキリスト教学者、護教家〕は、天文学を研究する人々の思想を「有害無意味」といい、聖書と理性の両方面から地球球形説に反対した。聖ヨハネス・クリソストモス〔4世紀のギリシャ教会の司教〕もまた、この科学的信念への反対に力を貸した。「聖霊の琵琶」として有名なシリア教会の第一人者だったエフライムも、これに劣らず熱心に反対した。


 そびえ立つ教会は断崖絶壁の如く科学の行く末を阻んだ。教会にとっては聖書が全てであった。だとすれば世界も社会も思考も感情も、聖書に合わせて形を整える必要がある。プロクルステスのベッド、人間プレス工場、精神は鋳型(いがた)で鋳造(ちゅうぞう)されるってわけだよ。

 更に別の権威が教会に追い風を送る──

 ダンテはこの地球の所在をさらに明確なものにしたが、それは地理学的な研究にとっては重大な障害となった。


 小説の物語性が摂理にまで昇華していた。つまり価値観とは本来自由に獲得されたものではなく、あらかじめ設定されるってことだわな。価値観を社会が規定する。こうして他人との優劣の間に幸不幸が誕生したのだろう。

 こうしたあやまった観念がだいたい消失したのちでも、一般の自然現象に天国の代理人が直接的に干渉するという、聖書的な観念を棄てることが困難だったという事実はいろいろな場合に見られる。地球をひとつの球体として描いた16世紀のある有名な地図では、南北の極にそれぞれ一つの曲柄(クランク)がついており、それを使って懸命に地球を回している天使の姿が描かれている。またある地図では、雲の間からつき出された神の手が、綱で吊された地球を支え、それを指で回している。


 天体の運行を人為として捉えるのは、やはり被創造物文化の為せる業(わざ)か。よくよく考えてみれば天地創造も人為的だ。あるいは作為、工作、プラモデル。


 これは笑うに笑えない話だ。「地球を回しているのは天使様なんだってよ」「へえ、そうだったんだ!」となった瞬間に、脳内のシナプスはそのようにつながってしまうからだ。刷り込みといおうが、条件づけといおうが、マインドコントロールといおうが、結局回路の問題なのだ。回路が形成されてしまえば後の祭り。インチキ宗教やネットワークビジネスにいそしむ人々を見れば一目瞭然だ。

 正統的立場の偉大な代表者は聖アウグスティヌスだった。地球が球形だという説についてはやや譲歩の色を示していた彼も、地球の反対側に人間が存在するという思想に対しては戦いを挑んだ。「聖書はそのようなアダムの後裔についてはなにも語っていない」と彼は主張する。「人間がそんな場所に棲むことを神が許し給うはずがない。なぜなら、もしそうであれば、キリストの再臨に際して空より降臨したもう主の姿を、対蹠面に住む人間は仰ぎ見ることができないだろうから。」

 アウグスティヌスよ、お前もか。でも、最大の犯人はアリストテレスなんだよね。影響力が大きい人ほど、権威者であればあるほど、その害毒もまた甚大なるものがある。一度つながった接続は中々切れるものではない。善悪は関係ない。脳はつながりやすさだけを問うのだ。


 科学の進歩を宗教(教会)が邪魔してきたことは確かだ。しかし、よくよく突き詰めると、権威と服従という心理情況に起因していることが理解できよう。とすれば、やはりミルグラムコジェーヴが重要になってくる。


 人間は信ずべきものを信ずるのではなくして、【信じたい】ものを信ずるのだ。


科学と宗教との闘争