権力と快楽との永遠の戦い

 権力をもっている者たちにとって、性は大きな支柱であってきた。だから、カトリックの聖職者たちは単純に性を否定してこと足れりとしてきたわけではなかった。人々に性の違反を認めさせる必要があったのだ。女性たちが聖母の子孫であると期待しながら、しかしやっぱりイブの末裔なのだと本音では考えている13世紀のカトリックの聖職者たちは、義務としての告解の儀式を設けた。当初、義務としてはささやかなこの儀式はかなり簡素なものであった。性の領域では、告解はさほど多くなかったからだ。性的行為はそれだけで罪悪とされ、告解して清められるべき行為だとされた。権力と快楽との永遠の戦いにおいて、権力が最終的に不動の指揮権を取ったかに見えた。だが、教会に対する愛崇拝の反抗を述べたところで見てきたように、快楽は抑圧されると、2倍になった力ではじける傾向をもつ。だから、告解の制度は、性衝動を抑えるものであったはずが、かえってそれを煽る結果にしかならなかった。ミシェル・フーコーは『性の歴史』において、告解は、お祭り騒ぎで露出しようとする貪欲な性衝動を焚きつけるばかりだったと論じている。それというのも、まさに告解という行為そのものが、口頭で性衝動を露出させることであり、性衝動を微細に語ることであるからだ。それまで絶対的に堅固であり独立して不変で、語ってはならぬ悪であった性。その性が突如、厳しく自分自身を検証し、細かな分析に自分をゆだねることになった。それまで、性行為という罪だけが存在していた。今、罪人たちが微妙ながらありうる堕落した事柄を細部にわたって告白し始めた。そのときの体位を、相手を、夢想したことを、執着心を告白するのだ。かつては罪人だけが存在したのだが、今は、ポン引き、姦夫、情婦、売春婦、同性愛者、獣姦者などなど、なんでもござれになった。性衝動という一枚岩が切り刻まれ、ひとつのものでありながら種々様々な形を取る悪徳にされた。性行為が罪であるだけにとどまらず、突如、性的欲望も性的妄想も罪であることになった。罪の領域全体が一夜にして千倍も拡大されたのであった。
 尋問し、詮索し、探索し、あら捜しをし、検査するあの権力に抗って、昂然と言い抜けをし、逃げ口上を言い、違反するという快楽が生まれてきた。性の抑圧運動に違反する最も喜ばしい形式のひとつが、告解の儀式を利用して、聴罪司祭の前で自分が選び取った罪をひけらかし、丸裸にし、しゃべりちらすということであった。西洋社会はこうして告解趣味を育てた。告解は聴罪司祭の権力欲を満足させるとともに、告白者の反抗と浄罪の願いを満たした。西洋人が教会で告解するだけでなく、宗教改革とともに、告解は告解聴聞席の儀式に限定されるものでなくなった。裁判官、医者、教師、親、恋人の前で告解するようになったのである。西洋社会は告解する社会になった。宗教上の罪、犯罪、苦痛、快楽、面倒事、そして道徳的罪をもった者たちが告解するのだ。そして、西洋社会のほぼ全部の領域――家族、教育、宗教、医療、文学、心理学、哲学――がそんな告解をしぼり出して、性衝動の領分を無限なほどに広げた。悪業の語りは告解聴聞席で記録されるだけでなく、審問、診察、カウンセリング、学説展開、文学の普及にゆだねられることにもなった。告解の要素をなくした『ロリータ』など考えられるはずもないだろう。


【『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル/浅野敏夫訳(法政大学出版局、1994年)】


エロスと精気(エネルギー)―性愛術指南